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2012/07/24

背負い人

小さい頃から僕は、ゲーム『信長の野望』シリーズをこよなく愛し数々の大名になりきって全国統一を果たしてきたが、相馬氏とは全くの無縁だった。小大名ゆえの困難さに加え、伊達氏、北条氏、上杉氏等近隣諸国の有力大名に囲まれている地理的難しさがあったからだ。そんな僕はゲームを通り越して末裔の方とお会いする機会を得た。その人は生きている時間の流れが一般人の僕とは驚くほど違っていた。
その人とは旧相馬藩の相馬家の三十四代当主、相馬行胤さん。初めてお会いしたのは昨年の卯月、中村神社にて。その頃相馬さんは相馬市での物資の配給に奔走していた。当時のお姿は無論、甲冑や袴を身に纏っていたわけではなく至って普通の市民の出で立ち。相馬家の当主の面影はなく最初拍子抜けしたのだが、お話を伺うと、旧藩領のこと、野馬追のことを熱く、それは熱く語って下さった。
市民が困難な時に手を差し伸べるのは当たりまえ、この震災を機に念願の楢葉より先の領土を手に入れようという冗談を織り交ぜ、野馬追開催に関しては野馬追とは「市民を守るため」に長年開催されてきたものであり、この危機的状況のなかで尚更開催しなければならないものなのだ、数百年以上続く野馬追の歴史の中でもこれまで幾度の危機があったが中止になったことは一度たりともなかった、今回の震災は天保の大飢饉の時と比類するほどの危機だが天保の時も執り行ったのだから今年も必ずや、と熱く熱く語られた。相馬さんのこの、身を置いている時間のスパンの長いこと長いこと! それを当然の如くお話なさるものだから、僕は「はぁー」としか言えない始末。尚もエンジン全開の相馬さんは「野馬追は神様と自分がいれば一人でもできる」と言い切られた。実際は家臣の武将達と地域住民の協力無しには成り立たないことは重々承知だったろうが、その時期に敢えて総大将が積極的に口にすることにより、皆を引っ張っていこうとする強い気概が感じられた。
そんな相馬さんに僕は恐る恐る、相馬さんの誇りは何ですかと尋ねてみた。少し間を置いてから、「自分とは相馬そのものであり、相馬家の歴史が私の誇りである」と堂々と返答された。そのお答えを聞いて僕は一瞬意味が分からなかった。僕にとって歴史とは学校で学んだり本を自分で漁って掘り探るものであって、背負うものではなかったからだ。
野馬追の期間中、相馬さんは相馬家の総大将の貫禄を存分に示してお祭りを執り行った。そこには僕が初めてお会いした時の印象とは雲泥の差の相馬さんがいらっしゃった。恐らくあの貫禄は一朝一夕で身につくものではなく、やはり長年続く相馬家の歴史を一身に背負ってきているが故の賜物だろう。
そしてこの写真は、野馬追最終日に多珂神社で執り行われた野馬懸の直後、参道出口で撮影したもの。大震災年の野馬追を終え相馬家の歴史に新たな一ページを加えた安堵感と、連日連夜行われたであろう宴の疲労感が程よく滲み出ていて、これもまた違った大将の側面ではなかろうか。
そして僕は思った。次回『信長の野望』をやるときは相馬氏でやってみよう、と。相馬の地で触れた歴史を多少なりでも感じられることを願いつつ。



2011/11/16

諸行無常

『東日本大震災復興 相馬三社野馬追』と銘打って開催された2011年 の野馬追。
残念ながら規模は大幅に縮小され、特に南相馬市内の行事は形だけのものとなってしまった。
雲雀ヶ原では蹄鉄の音が鳴り響くこともなく、野馬懸は素手で馬を捕えることなく引き馬での奉納だった。

諸行無常を感じさせる螺の音色が、より一層寂しさを増幅させていた。

2011/10/18

カッコイイ武士

野馬追で一番カッコイイ人を撮ろう、そう思って今年の野馬追に行った。
 
総大将出陣祝いの宴でのこと。勢揃いした相馬武士たちは各々が鎮魂や復興など様々の想いを胸に秘めこの日に臨んでいた。特別な年に開催される野馬追、武士たちは一様に険しい表情とピリピリした緊張感を発していたが、中でも一人異様なまでの緊張感、いやスナイパーの殺気にも似たようなものを周囲に放っていた人がいた。その人は宇多郷の螺役長をやってらっしゃる佐藤信幸さん。眼光は鋭く、髪にはアイロンが当ててあり、髭面。一瞬カタギかどうか見紛うような外見で、どちらかと言うと典型的な武士のナリではないかもしれないけれど、現代に武士がいたらこんな感じなのかと思わせる。

自分の中では「この人」と決めたにも関わらずなかなか声をかけられない。スキがないこともさることながら、やはりメディアからも注目を集めているようでインタビューで大忙し。そうこうしているうちに式も終了してしまい、宵の宴に入る前の一服時に思い切って声をかけてみた。

軽く自己紹介をしてからすかさず「一番カッコイイですね」と直球で攻めた。そして「独特のスタイルですね」と畳みかけると、少し照れ笑いを浮かべた後毅然と「自分のスタイルは崩さないです」と粋な答えが帰ってきた。やはり見た目通りで不器用ながらも芯が通ったお答え。その後に野馬追にかける意気込みをお聞きすると「この日のために生活している」「侍を一年間通している」と写真家が喜ぶパンチラインが出るわ出るわ、見た目だけではなく中身もカッコイイ。

お忙しそうだったので続きのインタビューは後日にすることにして、佐藤さんに「誇り」をお尋ねした。お答えは即答で「野馬追」。撮影の希望をお聞きすると娘の想愛羅(ソアラ)ちゃんと一緒にとのことだったので相馬家の陣幕の前で撮影をした。
 
後日、一見地味な螺役という役職についてお伺いすると堰を切ったように話を続けてくれた。近所の螺役の幹部の方から後継者育成のために誘われ中学生の頃から始めたこと、「野馬追は螺に始まり螺に終わる」という言われがあるように重要な役割であること、螺で全軍をコントロールする快感。そして螺役ならではの最大の誤解は「軽装は楽だべ」と周りから言われることだそうだ。確かに行列の時螺役は鎧兜ではなく軽装で臨む。けれど螺役を片手に乗馬し、馬上で螺を鳴らさなければならない。ましてや佐藤さんは行列が終われば鎧兜を見に纏い甲冑競馬や神旗争奪戦にも参加している身である。それは「(言った人を)見返してやりたい」と思うのも無理もない。
 
そして今は古より伝わる螺役の技術を後世に伝えることに励んでいる。その思いは震災後も変わることがなかった。4月16日、宇多郷の螺役は中村神社に集い月例の稽古を行った。野馬追の開催も危ぶまれ、「地震、津波、原発でそれどころではない」との声もあったが、野馬追があってもなくても、やるべきことをやる、(螺を吹くことを)止めてしまってはダメという決意にも似たようなものだったと語ってくれた。
 
日本全国で伝統文化は継承されているがここまでサムライ文化が伝承されている土地は稀だ。人が文化を育み、文化が人を育む。そんな単純明快なことがこの地では継承されてきたことをまざまざと思い知った。

そしてふと思った。なぜ伝統が脈々と紡がれているこの地方が放射能に穢されなければならないのか、と。

物理的に人間が放射能に打ち勝つのは不可能だ。放射能はその土地にあるものを根こそぎ奪い去る。放射能はやがて野馬追をも徐々に飲み込んでいくのではないか、そんな最悪のシナリオが頭によぎる。

そして耳奥には残響のように、佐藤さんがおっしゃった言葉が木霊する。

「遊びでやってるんじゃない、終生相馬家にご奉公するつもりでいる。その忠誠心はあるし野馬追で死んでも良いと思っている。」
 
放射能と刃を交えたらそこは相馬武士、佐藤さんは背を見せることなく最後まで戦うだろう。どうか佐藤さんが放射能相手に鯉口を切ることがないよう、祈っている。

2011/10/11

不動

小高名物の野馬追火祭り。
夕闇に凱旋した武士たちを沿道に焚かれた篝火と火の玉とが出迎える。
古来より絶やすことなく灯していた火。
今年は小高の地で武士を迎えることもできなければ、火を焚くことさえ叶わなかった。
代わりに今年は原町のお祭りで小高の火祭りが再現された。
小規模ながら闇夜に燈された火の玉は夏夜の微風に揺らめき幻想的だった。
お祭も終盤に差し掛かった頃、火種が切れた火の玉が一つ、また一つと朽ちていった。
風前の燭のなか、懸命に燃えようとする火々があった。
動かざる様は、まるで火が伝統を絶やすことを頑なに拒んでいるようだった。
 
 
 

2011/10/03

かけがいのない存在

母親が人の娘と赤子と共に映ったありふれた写真。しかし震災後に出産した東北の多くの母親と同じように、笑みの裏側には様々な想いが詰まっていた。
 
この女性は米澤志寿子さん。生粋の相馬の浜生まれ浜育ちで、市内の言葉とは異なり、直截でありながらどこかおっとりとした浜言葉を明るく喋る女性だ。

地震発生時は妊娠ヶ月でありながら社会福祉協議会のケアマネージャーとして利用者の方と話し合いをしていた。地震後、保育園に預けていた人の娘を迎えに行ったが次女の舞ちゃんしか保育園にいなかった。長女の奈那ちゃんは微熱のため浜に近い米澤さんの祖母の家へ行ったとのことだが、祖母とは一向に連絡がつかな。不安な一夜を明かした後やっと祖母と連絡がついた。奈那ちゃんは祖母にしがみつき襲い来る津波の奔流に耐えていたが、祖父は眼の前で流されてしまったと言う。
 
原発事故後相馬を離れて避難する選択肢もあったが、生まれ育った土地で家族と共に過ごすのが最良と考え、震災以後一度も相馬を離れなかった

責任感が強く、時には育児より仕事を優先してきた米澤さんは、祖父の葬儀を終えた翌日から仕事を再開した。震災後は疲労と心労が重なりお腹の張りを訴えて病院に入院もしたが、6月1日に無事長男の藍希くんを出産した。

九死に一生を得た奈ちゃんは震災以後、度重なる余震の度に怯える毎日だった。大災害で心に深い傷を負ってしまったが、保育園に再び通園するようになるとだいぶ落ち着きを取り戻し、今は前に向かって進んでいるように見えると米澤さんは言う。実際保育園で撮影していた時のこと那奈ちゃんはふとした瞬間にボーっとした表情を浮かべることがあったものの、浜の子らしく思いっきり遊んでいた。

次女の舞ちゃんは震災前と変わらず人見知り娘だが、性格的にはちょっかいを出したりするお調子者だ。撮影の際も最初はまともに撮らせてくれなかったが、2ロール目に入る頃には変顔やら不思議な顔やらをしてくれた。
 
自宅で可愛い娘と息子に囲まれた米澤さんに「誇りは何ですか」と尋ねた。写真家の嫌らしい予測というか期待通りと言うか、米澤さんの答えは「震災以前は仕事だったけれど、今は人の子供たちです」とのこと。震災をきっかけに家族、ことに自らが産み落とした子供たちのかけがえの無さに気付いたと言う。

地元原釜についても伺うと「生まれ育った浜が嫌いだった」とのこと。震災後も相馬に残り続けにも関わらず意外な答え。どうやら浜の言葉は相馬市内の言葉とも違い、小学校時代などはその言葉遣い故仲間に引け目を感じていたらしい。その浜が好きなったのは看護学校に通うために水戸に出た際のこと。街に出て初めて原釜の水・空気・魚が美味しく、隣近所の地域の和の良さに気付いたと言う。 

翻ってこの「かけがいのない存在」への思いというものが、現代社会ではますます希薄になってきているような気がする。家電製品や自動車は膨大な量の広告によって買い替えを迫られ、音楽はコピー、終いにはクローン動物までも技術的には可能となっているこのご時世。実態やらオリジナルを見失いがちになってしまうが、この世には刻一刻と新たな産声が世界中で上がっている実際に私は米澤さんとの出会いで藍希くんという新たな生命と出会うことができ、感じることもできた。なんだ、そう難しく考えるまでもなく、ただ生きとし生る生命はかけがえの無い存在として私の身近に溢れ、いつでも感じることができるではないか。そんなことに気付いたら、米澤さんとの出会いは勿論、私の周りに溢れる人、草花、生命が一層愛おしく思えてきた。
 
そんな単純だけれど大切なことに気付くことができた。その上、写真を米澤さんに差し上げたら「こんな時代だから写真の大切さを今まで以上に感じてます」と喜んでもらった。

だか、二重に得をした気になった。

2011/09/20

原風景

海と山に挟まれし浜通り。
相馬から福島へ向かうと程なく、奥羽山脈に分け入る。
雨上がりの午後、辺りは霧に包まれ神秘的な雰囲気を帯びていた。
霧間に姿を見せる、太古から姿を変えずにそびえる山々と、先人が切り拓いた畑々。
まさに日本の原風景の一つ。
木々や草花は新鮮な水と空気、そして豊穣な大地に抱かれていた。
しかしこの大地はたった一回の、しかし致命的な事故により高濃度の放射能に穢されてしまった。

山は、木々は、草花は、今一体何を思っているのだろうか?


2011/09/09

内に宿りしDNA

「普通」ってなんだろ、そんなことを考えさせてくれた撮影だった。

津波で廃墟となった原町の老人ホームでの撮影も終盤を迎えた頃、一台の軽自動車が入ってきた。震災から3ヶ月以上も過ぎていたこの頃、津波の被害が甚大だったこの地域は一種の観光地と化しており、地元の車のみならず他県ナンバーの車が少なからず往来し、写真撮影やら記念撮影をするのが流行っていた。写真家という「言い訳」を使って他人の敷地をズケズケ歩いている僕が文句を言える身ではないのだが、それほど往き交う多かったため、その一台の軽自動車が入ってきても「また観光客か」くらいにしか思わず、入り口脇で撮影を続けていた。しかし降りてきた一人の若い女性は施設に目もくれず私の方へ寄ってきてこう尋ねた。「何をされているのですか」と。それまで僕は写真家特有の怪しい動きで地を這って天井を撮影していたので、不思議に思うのも無理もなかったであろう。一通り自己紹介をした後、こちらも尋ねてみた。

声をかけてきたのは小高区出身の江井良美さん、22才。家が原発20キロ圏内の警戒区域のため親戚の家がある鹿島区に避難している。何でも震災以前に曾祖母がこの老人ホームに入居しており、震災後何度目かの様子見に来たのだと言う。江井さんは僕のことを施設の職員かと思って声をかけてきたようだった。江井さんにとっては期待外れだったわけだが、僕にとっては飛んで火にいるなんちゃらと言うもの。まさか小高区出身の若い女性から声をかけられるとは予想だにしておらず、早速プロジェクトの概要を説明して撮影のオファーを出したが、久しぶりに会った友人をバス停まで送る途中とのことで、後日またお話することを約して別れた。

週明けに電話をしてみるとどうにも江井さんの歯切れが悪い。どうやら私が尋ねた『誇り』があまりに抽象的すぎて、答えに窮していたようだ。そこで僕が、江井さんにとっての拠り所となることや大切なことと言葉を変えたら、「大切なものや場所や思い出は全て小高にある」とのことことだった。

江井さんの撮影場所を決めるのは難儀した。何故なら江井さんは誇りである小高への愛着が強く、警戒区域外の場所にはこれといった思い入れがほとんどないからだ。結局少しでも小高と縁のある場所ということで、小高にいた頃毎年のように遊びに来ていた北泉の浜で撮影することにした。
撮影の日は雨にもかかわらず嫌な顔を一つせず撮影に臨んでくれた。少しでも浜の雰囲気をだそうと波に近づいてもらったら背後の波が気になるようで、時折不安そうな顔を浮かべていた。
江井さんは外見は今時の若い娘だけれど、性格は素直でノンビリしているまさしく東北の「フツー」の娘。
僕はこの「フツー」で良いと思う。近年、テレビや雑誌などで個性やらオンリー・ワンやらを強調しているが、あれは特殊な業界のなかで生き残るために生まれたようなもので、日常の単調な生活、こと単調になりがちな農村部の生活には必要ないように思う。しかしその単調さが逆に醍醐味でもあり、東北の人々は昔からそんな生活の中で祭りなどの独特な文化を育んできた。
小高は野馬追祭りで有名だが、東京の人間でなくとも、東北の人間でも震災前は小高という地名を知っている人は稀であったろう。けれどそこで普通の生活を営み、脈々と文化を受け継いで、小高が誇りと答える人々がいる。小高の人にとってはそれがフツーでも、よそ者にとって独特。その土地が生まれ持った人間が宿す、受け継がれしDNA。
そんな「フツー」な生活でで十分、いやそれこそがかけがえのないものだと思うのは僕だけだろうか?


2011/08/30

狭間

津波に襲われ廃墟となった老人ホーム。
3ヶ月を経ても時は止まり、数々の痕跡が残ったままだった。
圧倒的な力で押し寄せてきた津波と片田舎で幸せな余生を送っていた老人たちを、僕は想起していた。
その狭間でふと思った。彼らは何処に行ったのだろうか。
そしてヒトはこれから何処へ行くのだろうか。



2011/08/25

遠い日の忘れもの

遠い昔の忘れものを相馬で見つけるとは思いもしなかった。

今回のプロジェクトで高校生の写真を撮りたいと漠然と思っていた。そして意中のモデルはサッカー部員だった。しかし道端でサッカー部員に会うことはなく、痺れを切らして直接コンタクトをとったのが小高工業サッカー部だった。小高工業は校舎が警戒区域内にあるため現在は相馬を中心に福島、郡山等でサテライト授業を行なっている。部員は各々の校舎に散り散りになっているが、中心校がある相馬が部員数が多く、3年生は7人いる。

僕のプロジェクトの説明をした後に撮影に応じてくれたのが3年生の齋藤一樹くん。小高区出身で小学1年生の時に兄の影響でサッカーを始めた。震災後、齋藤くん一家は父が務めている会社の本社がある長野に避難した。このまま長野に移住して親も転勤、齋藤くんも転校と決まりかけた頃、齋藤くんは、小高工業がサテライト授業を行ないサッカー部も存続可能であると知って、親に福島帰郷を願い出た。やはり2年続けた小高工業サッカー部の名を背負って試合に出たいと。 親も齋藤くんの思いを汲み取り、サテライト中心校がある相馬に引っ越した。

齋藤くんはゲームキャプテンを務めており、チームのムードメーカー。震災後、齋藤くんが中心となってバラバラになっていた部員に連絡をとって部員たちを繋げた。だが各々の家庭の事情を最優先し、福島に残るよう説得することはしなかった。それでも3年生は13人の部員が残った。
大会が始まった今は福島県内に散らばっている部員に連絡をとってチームを引っ張っている。どのようにと尋ねると、「気持ちの面で意識を高め合ってる」と。特に環境のハンデを言い訳にしたくないと皆で言い合っているという。幸い練習量は例年と同じ位こなすことができ、チーム全体の連携も先週末の試合で思った以上に取れていたという。
就職や故郷のことなど不安な面はあるが、今はサッカーのことだけに専念していると齋藤君は語ってくれた。

だがふとした瞬間、隣人の物音が筒抜けの仮設住宅で「なんで自分はここにいるのだろう?」という感覚に陥ることがあるという。
奇遇ながらこの感覚、私も高校時代に陥った。皮肉なことにその時私はサッカーの試合中に選手ベンチ裏だった。中学から本格的にサッカーを始めた私は、いつしか高校サッカーで国立競技場に行くのを夢見ていた。だが高校に上がってから怪我が続き、高1の時に膝の手術を受けた。八ヶ月かかって復帰した後も、捻挫、脱臼と冗談みたいに怪我を連発し、終いには高3に上がる直前に再び膝の大怪我に見舞われ、サッカーを断念した。そんな僕が同級生の最後の戦いを一般客としてベンチ裏から見ていた時に「なんで自分はここにいるのだろう?」と思った。
もちろん、私は家に帰ることができるし、震災で失った人もいないので、齋藤くんの思いと並列して語るのは失礼かもしれない。しかし齋藤くんも言っていたけれど、あの頃の僕にとってはサッカーが全て。それが取り上げられた喪失感はハンパではなかった。その頃の自分の姿と、小高工業サッカー部の子らの今のこの逆境の姿を重ね合わせてしまっているのかもしれない。まるで高校生の時の僕の忘れものを見たかのように。

そうした極めて個人的な思いもあり、彼らの最後の挑戦を温かく見守りたいと思っている。正直、相馬とはいえ福島県内で屋外活動することに諸手を挙げて賛成できないし、放射線量が高い郡山でわざわざ予選を開催することには納得できないでいる。でも。小高工業の名前を背負って戦う決意をし、国立を夢見るサッカー少年たちを僕は止めることはできない。サッカーができない苦しみを人一倍知っているから。

そんな齋藤くんの誇りは『仲間』。チームが揃わないとサッカーはできないし、チームメイトは練習もプライベートも常に一緒だからとのこと。この状況下で仲間とサッカーをできることの喜びを噛みしめているのは想像に難くない。実際練習を見学させてもらっていても、グランドは相馬東高校の空いた時間しか使用できないのにもかかわらず、皆明るく元気に、そしてサッカーを楽しんでやっていた。齋藤くんは『仲間』が「一生の宝ものになるっす」と言った。
練習後、そんな齋藤くんと一緒にチームキャプテンの長尾雄太くんが撮影に応じてくれた。最初はお互い照れていたが、そこは気心しれた間柄、すぐに気持ちを一つにしてカメラの前に立ってくれた。
後日プリントを見て気付いた。僕は彼らに若かりし頃の見果てぬ夢を託していたことに。勝手に夢を託されてもいい迷惑だろうが、正月の国立までとは言わないまでも一日でも長く『仲間』と共にサッカーを続けられることを祈っている。

写真:齋藤くん(右)と長尾くん(左)



2011/08/19

末路

水田の上で行き場を失った大型漁船。

まるで太平洋戦争末期に散った戦艦大和の運命のようだった。

空母を中心とした航空戦が主流になりつつあった時に、国を挙げて造られた時代遅れの巨大戦艦。

その末路は片道燃料での玉砕だった。

技術にしろ物にしろ、時代や場所に見合ったものでなければ、それはもはや無用の長物でしかない。



2011/08/15

幸せなループ

幸せな関係を、相馬の港町で見た。

その幸せな関係は相馬市のみなと保育園にて育まれている。みなと保育園は松川浦から目と鼻の先にあり、距離にすると100メートル足らず。幸いちょっとした高台にあるため保育園は津波の被害を免れた。海が近いからか懸案の放射線量も、毎日行なっている独自検査によると比較的安定している。

この保育園で働く佐藤あずみ先生は、幼い頃はみなと保育園に通っていた。家は保育園から数百メートルの場所にあり、まさに地元っ子。あずみ先生は小学校に上がってしばらくした頃には「保育士さんになりたい」と子供ながら思い描いていた。この思いは高校生なっても変わらず、高校卒業後は宮城県の短大まで自宅から通い、卒業してからはストレートでみなと保育園に戻ってきた。
保育士さんを志した理由は、あずみ先生曰く「子供が好きだから」。長年描いてきたお仕事は大変だがやりがいを感じていると言う。

実は私はこの保育園を訪れる前にあづみ先生と3回お会いしている。初めてお会いしたのは、あづみ先生が友達と仙台に車で行く際にたまたま乗り合わせた時で、あまり喋る機会もなかった。2回目は以前ブログで紹介した相馬のバー『101』にふらっと寄った時。この時あづみ先生は女友達と楽しく飲んでいて、図々しく混ざって楽しめば良いものを、シャイな僕は短い挨拶を交わした後、独りカウンターでチビチビ酒を呷っていた。3回目は僕が相馬の駅前のラーメン屋さんに行った時。あづみ先生はご家族で夕食中で、この時も短い挨拶を交わしただけだった。お会いした3回とも「こんど写真を撮らせて下さいね」と軽くはお願いしていたが、実現はしなかった。
ところがふとしたきっかけみなと保育園に行く機会ができ、そこで撮影は実現した。働いているあずみ先生はザ・保育士さんとでも言うべきか、とにかく明るく元気。それもそのはず、みなと保育園の雰囲気全体が明るく元気なのだ。子供は港町なため男の子も女の子もやんちゃ者が多く、都会の親なら吃驚するような豪快な遊びをする。撮影時も腕を掴まれるわ、気づいたら背中に子供が乗っかって来ているわ、と、何かと体力を使わせてもらった。
年間、いろいろなイベントを企画してるみなと保育園。たとえば、野馬追祭の前には、子供たちに武士の恰好をさせるミニ野馬追を企画、その際園長先生は自らダースベイダー調の武士に扮して音頭を取った。そうした園長先生のおおらかな気風がそのまま保育士さんに反映されている。

地元の明るく元気な保育園で育ち、大人になって明るく元気な保育士さんとして働き、明るく元気な子供を育てる。ありふれた話かもしれないが、人々の生活を根こそぎ奪う原発事故の後も、脈々と続いているこの幸せなループが僕には愛おしい。



2011/08/08

献身の精神


このシリーズを始めて以来、僕は看護婦さんを探していた。別に個人的な趣味ではなく、震災後、原発事故後のこの状況で病院に残っている方はさぞ誇りを持って働いているだろうと思ったからだ。だが出会いはいっこうになく半ば諦めかけていた頃、取材先の相馬の幼稚園で看護学校の学生さんが実習に来ていると聞き、早速紹介して頂いた。

実習に来ていたのは相馬看護専門学校3年生の6人だったが、4人は宮城県から通っているとのことで、残りのお2人にお話を伺う。その内のお1人が鎌田美咲さん。出身は警戒区域内の小高区で、家は津波により流されてしまい原町区で暮らしているという。私のプロジェクトの説明をした後に、「あなたの誇りは何ですか?」と尋ねると、困惑しつつも「看護師を目指していることです」と答えてくれた。さらに「失うものは何もなく、前に進むしかない」と語り、しっかりと前を見据えていた。どうせ撮影するなら制服姿でとお願いしたら、ちょうど2日後は学校で自習とのことなので、さっそくアポをとった。

当日学校に行って鎌田さんにお会して話してみると、ちょっと様子が変、と言うより声がほとんど出ない。どうやら風邪をこじらせたよう。幸い撮影は可能とのことなので撮影を済ませ、インタビューは後日することに。

後日お話を伺うと、思っていた以上にしっかり者だった。母親が介護福祉士として働いている姿を幼い頃から見ていたので、「人と関わる仕事がしたかった」からと看護師を高校2年の時に志した。震災前は、看護学校卒業後は隣町の原町の病院に勤めるつもりでいた。理由は、自分を育ててくれた大好きな地元をこれからは自分が支えたいと思っていたから。そして患者さんにとっても、地元の知っている人が看護師としていた方が安心するのではないかと、患者さんのことまでしっかり考えていた。さらに鎌田さんは働く病棟も急性期と決めている。その訳は自分が看護師として見返りを求めているのは金銭的報酬ではなく、「ありがとう」という患者さんの言葉や、患者さんの目に見える回復という心理的報酬であり、そうでないとモチベーションが保てない自分を知っているからだと言う。

これだけ自分の考えを整理できているだけで素晴らしいのに、近い将来看護師として働く覚悟もすでにできていると言う。もちろん仕事は厳しいだろうし、人と向き合う仕事は責任重大なので不安もあると言う。だが学校の授業を通して今まで色々学んだので、誠意を持って向き合えばなんとかなるに違いないと信じているそうだ。鎌田さんのお話を伺っていると、僕が鎌田さんぐらいの年の頃、何も考えていなかった自分がなんだか恥ずかしくもあり、だからこそ今の彼女のこの姿勢は立派だと素直に感心もした。

ここまでお話を伺って撮影の時に鎌田さんの様に納得がいった。制服姿になった鎌田さんはこちらがビックリするほど落ち着いた、堂々たる様だったのである。まるで現役の看護師さん、いや看護師長さんくらいの雰囲気を醸しだしていた。やはり外見は内面を映し出す鏡だなと思った。

インタビューの最後に誇りについてもう一度尋ねると、今度はキッパリと彼女は言った、「自分より他人を優先的に考える看護師を目指している自分」と。この献身の精神、今この時代でとても大事な精神な気がする。そしてこの精神を産み出す大地、文化に人々が今立ち入れないという事実が、あまりにも重い。





2011/08/05

相馬の人情

江戸っ子は「義理と人情と痩せ我慢」というが、相馬にも相馬の人情があった。

佐藤浩美さんは夫の浩治さんと相馬市で上下水道の設備会社を営んでいる。夫は生粋の相馬人だが奥さんの浩美さんは原発20キロ圏内の南相馬市小高区出身。この地域の女性はとても保守的で、「男性の一歩後ろを歩く」感じで、初対面の人ともあまり話さない。だが浩美さんはまるで異星から来たかのように初対面の僕に話しかけてくれ、自然と浩美さんへのインタビューに変わっていた。

浩美さんは相馬で旦那さんと仕事をするにあたって、相馬の独特な人間関係に馴染むのに時間がかかったという。なんでも相馬藩の城下町だった相馬市民はプライドが高く、よそ者を受け入れない気風だそうだ。仕事に関しても近隣の原町の人は相馬に支店を出すが、相馬の人はほとんど原町に支店を出さないと言う。客は取りに行くものではなく、来るものだという考えなのだという。この気風は佐藤さんの会社にもあり、「値段が高い安い言うお客さんは相手にしない。ウチはアフターケアがウリなんです」と言った。

営業先で女性であるだけで浩美さんは蔑まれ、さらに小高区出身であることが分かると下から舐めるように見られたものだと言う。東京でしばらく仕事をしたことのある浩美さんにとってこの経験には困惑したそうだ。だが浩美さんは決して諦めず、必死に相馬のコミュニティに入る努力を続けた。そして数年が経過した後、お客さんを紹介してもらったりと優しくしてもらえることも多くなり、晴れて相馬コミュニティに入れてもらえたという。人情を基にしたコミュニティ内の付き合いは煩わしい時もないわけではない。しかしそれ以上に、コミュニティ内の居心地が良く、今ではコミュニティ内の人情が彼女の誇りにすらなっている。
面白いことに、いまや相馬の人情が染み付いた浩美さんは、たまに東京の雑踏に混じると「落ち着く」と言う。曰く、「何も考えないで付いて歩けば良いから」。東京の育ちの私には東京の雑踏が息抜きとは驚愕だったが、それは古いタイプのコミュニティの本質を示唆しているような気がした。

そんな浩美さんの切実な願いは「普通の暮らしがしたい」ということ。
原発が爆発した後すぐ、佐藤夫妻は千葉県の親類の所へ身を寄せた。だが首都圏の人々が日常を日常として過ごしていることと故郷との温度差に違和感を感じ、「残っている人々が苦労しているのにこんなことをしている場合でない」とすぐに故郷に舞い戻った。
そうして今、原発事故から4ヶ月以上が経過しても未だに「普通の暮らし」は戻っていない。小高区の親類は未だに故郷に帰ることが叶わず、お客さんも完全には戻ってきていない。

写真撮影は生粋の相馬人の旦那さんと、相馬の人情に触れることがお仕事の事務所で行なった。この時代に珍しく大きなダルマさんを前にして。ダルマが8つ置いてあるのは「『七転び八起き』の精神なのだ」と笑って言った。
「『七転八倒』になりませんように」など戯れ言を言い合いながら、僕はシャッターを押した。


2011/08/01

執着

荒れ果てた北泉の浜。  
火力発電所は津波に呑まれ、地盤沈下で海も近くなった。 
霧の中にはうっすらと鉄塔の姿。 
ゾンビさながら執着している様が、利権にしがみつく人間の姿とダブって見えた。
 
 
 

2011/07/30

農の民

「さみしいな」

門馬勝彦さんはタバコをふかしながら北泉の浜を見てこう、呟いた。
地元は隣町の鹿島区だが、北泉の浜にもたまに訪れ波に乗っていた。仲間を通じて北泉の惨状を耳にしていたが、「見るのが怖」くて来れなかったという。かつてサーファーが365日集い、サーフィンの世界大会すら開催された北泉の浜の変わり様は門馬さんの予想以上だったようで、しばし浜を見て佇んでいた。

門馬さんは時間さえあれば冬でも波に乗る地元のサーファー。最後に海に入ったのも昨年末だったという。しかしサーファーは門馬さんの素顔の一面で、本業は種苗、野菜を中心とした専業農家。地元鹿島区でお兄さんと二人三脚で規模を大きくしてきた。しかし震災を機にお兄さんは山形へ避難し、現在は門馬さんが中心となって経営している。そしてお会いした時に門馬さんが力を入れていたのがゴーヤの苗。節電グッズとしてにわかに脚光を浴びたゴーヤを被災地福島から全国に届けようと、地元NPOとタッグを組んで販売していた。
そんな門馬さんの誇りは地元だ。門馬さんは鹿島区のことを話し始めるとゆっくりとだが、熱く語る。鹿島区は小さいが海あり、漁港あり、山あり、川ありと自然に恵まれ、自給自足も可能だという。門馬さんは時間があれば海でサーフィンを楽しみ、川で鮎や鮭を以前はいつも釣っていた。

そして撮影はビニールハウス内のゴーヤの苗の前で行った。ハウスの光の状態は抜群だったが、通路に立った肝心の門馬さんの表情が硬い。1ロール使っても変わらず、どうしたものかと困ってゴーヤに近づいてもらったら、急に引き締まった顔をした。やっぱり農民は土に近づいてこそなのだと思った。正直、僕は門馬さんに地元鹿島の浜での撮影をオファーしたのだが一度断られている。忙しいから時間がないとのことだったが、沢山の思いが詰まった浜に行きたくない、撮られたくないという思いがあったのだと思う。しかしハウスで撮影は結果的に正解だった。ゴーヤに近づいた後は誇り高き鹿島の農民になっており、シャッターを数回切った後に確信した、カッコイイ写真が撮れたと。

土地とそこに住む者との目には見えない断ち難い関わりを僕は目の当たりにした。


2011/07/25

夢の痕

誰もいない早朝の烏崎。

以前は沖で多くのサーファーが波を乗り、浜では相馬武士が愛馬に跨り疾駆していたという。

彼らの夢の痕を眺めていると、涙が溢れてきた。

そして陽は、また昇った。
 
 
 

2011/07/21

バカじゃないと



相馬野馬追祭りに関しては「戦国絵巻さながらの光景」とずいぶん前から耳にしていたし興味もあったが、お一人の参加者にお会いして、お祭りに参加している相馬武士の一端を見た気がした。

その方は深野利正さん。生まれも育ちも南相馬市原町の深野さんは、野馬追にはもう30年近く参加している大ベテラン。幼い頃から相馬武士が甲冑を身につけ乗馬にて市内を練り歩く姿に憧れ続け、大人になり経済的に余裕ができてから参加し始めた。
深野さん曰く、野馬追の参加者のタイプは大きく分けると「お祭りが好きなタイプ」と「馬が好きなタイプ」の2つに分かれる。前者は馬を直前に他から借り、後者は馬を一年を通じて飼うんだという。そして深野さんは正真正銘、後者。数年の間は馬を借りて参加していたが、お祭りの期間だけではなく毎日馬と関わっていたいと思い、馬を飼育するようになった。

深野さんのこのスタイルはよく分かる。僕は大学時代は休みとなると馬小屋に泊り込んでいたが、馬に乗るよりも馬を世話している方が好きだった。勿論、馬の世話は簡単ではない。どんなに遅くまで飲んでいても朝にエサをやらなければいけないし、冬の厩舎作業は寒さとの戦いだ。でも馬と触れ合っていると、不思議と作業の辛さを忘れてしまう。

今は町の外れに厩を借り、そこで2頭の馬を飼育している。朝夕にエサをやるにも放牧するにも、何をやるにもすべて深野さんがそこへ通ってやっている。原発が爆発し市民の多くが市外に逃れた際も深野さんは原町に残り、ガソリン不足の際は毎朝1時間以上歩いて通って世話をしていた。馬の飼育と甲冑などの野馬追参加の準備はお金と労力がかかるが、それでも馬を飼育し野馬追に参加するのは、ひとえに「馬が好きで、馬と接するのが好きだから。好きなものは仕方ない」とキッパリ言う。馬が好き過ぎると、「自分のご飯は食べずとも、自分の馬だけは堂々とした肉体にしておきたい」と思うのだそうだ。そして続けて言った「バカじゃないとできない」、と。

こんな深野さんは自分の馬だけではなく、他人の馬も放っておけない性格だ。3月下旬、避難指示が出ていた原発20キロ圏内の国道近くで馬が文字通り「路頭に迷っている」と聞いて居ても立ってもいられなくなり、馬運車を手配してその馬を捕獲して厩舎に連れ帰った。誰の馬か、これからどうするかのアテもないまま。結局はNPOの助力を得て県外に避難させることができたのだが、それまでの間は深野さんがボランティアで飼育していた。

恐らくこの地域の人は『ムダ』を排除するとか『楽をする』と言う現代の価値観で動いてはおらず、逆に『ムダ』と『労力』に美を見出しているように思える。でなければ馬と甲冑を自費で用意した武士が500人以上も集まらないだろう。お祭りには余剰の消費という側面もあるし、「武士は喰わねど高楊枝」とも言う。そんな『バカさ』に僕は憧憬を抱く。そして想像した。僕もこの地に生を授かり育ったら立派な『バカ』になっていたのだろうと。

今週末に開催される野馬追は規模を縮小して行われるため、残念ながら『バカ』が勢揃いとはいかなそうだ。来年こそは、見てみたい。



2011/07/18

中心

僕は自分が何かの中心にいたことなんてなければ、中心にいたいとなんて恐れ多くて考えたことすらない。中心にいる方が傲慢であろうと思っていたが、僕が出会った相馬の中心にいる人物は意外や意外、その中心にいることの責務を黙々とこなし、喜びを噛み締めていた。

震災の混乱が未だに続いていた3月下旬、僕が相馬は中村神社に初めて訪れたとき、所狭しと置かれた救援物資の隙間をぬって電話の応対、支援の指示と実行、はたまた社務を忙しなくこなしていた女性がいた。その女性とは中村神社で禰宜さんをしている田代麻紗美さんだ。

中村神社は一千余年の歴史をほこり、1611年に旧相馬藩主が小高からこの地に城を移してから現在の姿となっている。中村神社では相馬藩の神事である野馬追を代々執り行なってきた。
田代さんは震災以前は禰宜さんとして社務をこなす傍ら、地元の方々に乗馬を通じてホースセラピーを行なっていた。野馬追の行列にも幼い頃から参加し、5年前からは中村神社の禰宜さんとして参加している。
だが震災を境に状況は一変。馬の救出、飼料の配布を始め、地元の方々に救援物資を配るなどボランティア活動がメインとなった。それでも社務はあるわけで、忙しい合間を縫って祈祷やお祓いを執り行なっている。

正直、僕はボランティア活動に奔走している田代さんしか見たことがなかった。その活動自体は素晴らしいものだし、その活動をしている田代さんのお姿も輝いていたのだけれど、その姿を写真に収めようとは思えなかった。なんと言うか、田代さんの奥底に眠る神秘性のようなものが引き出せないと思ったからだ。
そんな訳で撮影をお願いすることもないまま時が徒に過ぎ去っていったが、東北地方が梅雨入りして間もないころ、祈祷が執り行なわれる日に中村神社にお邪魔した。もちろん、祈祷を捧げる田代さんは禰宜さんの出で立ち。東洋の神秘がほどばしる姿を見て思った、やはり禰宜さんは禰宜さんモードになったときに初めてその神秘性を表に出すのだな、と。境内で祈祷が終わった後に、しっかり撮影させて頂いた。

そんな田代麻紗美さんの誇りは「相馬の中心に居れること」だそうだ。野馬追や観光名所として中村神社は相馬で「シンボリックな場所」であり、その中村神社で禰宜として関われることを幸せに思うのだそうだ。田代さんは震災以前から相馬に特別な思いを感じていた。都会とは異なり相馬は海と山が近くにあり、その素晴らしい環境で生まれ育ったこともあり愛着があると言う。

その相馬の野馬追は今週末に開催される。震災と原発の影響があって例年より規模を縮小しての開催となるが、中村神社での総大将出陣式ならびに市内での行列は予定通り実施されるようだ。田代さんも禰宜さんとして参加されるとのこと。その乗馬での出で立ちにも注目したい。


2011/07/14

天職


バーテンというと落ち着いた感じで喋り淡々とお酒を作るというイメージだったが、相馬のバーテンは一味も二味も違っていた。

相馬駅近くにお店を構える『101』はコンクリート造りで入り口は2重扉となっており、高級クラブを連想させる。地方でボッったくられるのも嫌だったが、僕は勢いでドアを開けた。こじんまりとした町のバーを想像していたが、まったくの真逆。ゆったりとした店内にダーツとビリヤードが併設され、天井は高く雰囲気がとても良い。
時間が早いせいもあって人はまばらだったが、お話を伺うには絶好のタイミング。早速バーテンの方に声をかけた。その人は山岡道治さん。このお店でバーテンとして12年以上働き、5年ほど前からは店長としてお店を任されている。
僕は飲み屋と言うとチェーン店か赤提灯が主であまりバーに足を運ばないのだけれど、この人のスタイルは独特だと感じた。カウンター越しにトークをするのはバーテンとして当たり前なのだが、トークがユニークなのだ。
お客さんの話を聞くモードもあるが、だんだんエンジンがかかってくると自分でボケて勝手に盛り上がる。若いお姉さんがくるとイジって楽しむ。そして馴染みのお客さんが団体で来ると、仕事場からいつの間にやら離れ山岡さんまでパーティールームに消えてしまう。山岡さんが不在の間もオーダーは入るわけで、他のスタッフの方がマニュアルを見てお酒を作っている。それを見ていて、僕は思わずクスクス笑ってしまったものだ。このスタイルが相馬で主流だとは思えず山岡さんのオリジナルなのだろうが、不思議と店は夜になるほどお客さんで賑わい、山岡さん目当てにくる若い子も多い。
お酒を作るときは一変、阿修羅の如く手で次々とお酒を注ぎ、その速さ、丁寧さ、味は申し分がない。もちろんこの時でさえ口は動いているのだけれど。

山岡さんのお母さんは美容師さんで、その姿を見て育った山岡さんは美容師になりたいと思っていたという。しかし酒好きな山岡さんは、気づけばバーテンになっていた。山岡さん曰く、バーテンは『天職』。その心は単純明快で、「酒も呑めるし商売もできるから」。大阪商人でもないのに誇りを『商売人としての自分』と公言するのにも最初違和感があったが、その働きっぷり、飲みっぷり、喋りっぷりを見ていて納得した。

この店の賑わいは震災前と全く変わらない光景だが、影響が皆無だった訳ではない。山岡さんは津波により父親を失い、原発事故で避難もした。しかし結局また相馬に帰ってきた。
相馬の町や海には数々の思い出や愛着があり、この町を福島県浜通りの最前線として元気にしたいと思っていると言う。

僕はそんな山岡さんの姿を見て、『天職』を見つけ出しそれに生きる人は自然活き活きとするのだなと感じた。そして思った、自分はどうなんだろうと。写真が『天職』なのか未だに分からないが、5年後、10年後も僕は変わらずカメラを持っているのだと思う。



2011/07/11

新しい戦争

皐月晴れの下、南相馬市萱浜で自衛隊による行方不明者の捜索が行われていた。

宮城、岩手両県とは異なり、被曝の恐怖と隣り合わせの作業。

昼休憩の前に、隊員は順次カウンターで放射線量を計測していた。

これは新しい戦争の始まりなのだろうか。