2011/05/18

辿り着いた「場所」

ゴールデンウィークに入り全国各地からボランティアが南相馬市に集い始めていた或る日、私は午前中に2つの撮影を済ませ、昼食と一服のコーヒーを頂きに南相馬市原町駅近くの珈琲屋さんに立ち寄った。入ってすぐ、カウンターに独り座る男性が目に飛び込んできた。私はシュールな雰囲気に息をのみ、声をかけるのを躊躇ってテーブル席に腰を下ろした。

その男性がおかわりをマスターに頼む声が聞こえた。見ればお湯割りを呑んでいるようだ。大荷物を背負ってゴソゴソしていた私は独り酒の恰好の標的だったのだろう、早速その男性が
「ボランティアさん?」
と声をかけてくださった。
「いえ、東京から来た写真家です」
そう答え、続けて私のプロジェクトを説明し、お話を伺った。お名前は川田雅信さん、60歳。聞けば、川田さんは日本各地の原発の労働に30年以上も従事していたと言う。原町で原発労働者にお会いできるとは思っていなかった私は小躍りしたが、このまま話を続けるには困ったことがあった。まだ昼過ぎだというのに川田さんはすでに酔っておられたのだ。私が話の真偽を訝っていると、こちらの空気を察した川田さんは原発手帳を見せてくれた。事実を確認した私は、そのまま話を続けてもらった。
原町は奥さんの故郷であり生活の拠点としていたこと、その奥さんを3年前に亡くしたこと、もう今は原発労働に従事していないこと、長年の原発労働で慢性的な倦怠感に悩み薬を毎日服用していること。
今は市役所で、震災後に欠配となっている各社の新聞を毎朝配るボランティア活動をしていると言う。なんでも、市役所前には被災状況や原発の状況に憂慮している大勢の市民が朝の3時前から並び混乱するので、列の整理と、ゴミ拾いをしているのだそうだ。理由は「他に出来る人がいない」ので。
そして川田さんの「誇り」をお尋ねすると、今やっているボランティア活動だという。
私は少し不審に思った。ついこの間始めたボランティアが誇りなのか、と。私は繰り返し尋ねたが、答えは同様だった。
堂々巡りになっていったので、翌朝市役所前でお会いすることを約束して私は珈琲屋を出た。

果たして翌朝6時前に市役所に行くと、そこには川田さんが誇らしげに活動している姿があった。前日にお会いした際の酔っている姿からは打って変わって、テキパキと動き、「ありがとう」と声をかけられると笑顔で応えていた。
この姿を見て私は思った。原発での仕事とは異なり、人と触れ合い、人から「ありがとう」言われるのが川田さんは嬉しいのではないか、と。奥さんを亡くした今、この「場所」こそ彼が寂しさを紛らわすことができ、胸を張って働ける場所なのではないか、と。私の言葉に、川田さんは直截には返事をしない。ただ、「そうかもね」とポツリと答えるだけだった。

南相馬市の屋内退避指示が解除されたのを受け、市役所 前の各社の新聞配りは予定ではもう終わっているはずだ。彼がまた、彼の「場所」に辿り着けることを、切に願う。


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