2011/05/30

不惑のひと

萱浜(かいはま)は南相馬市原町区の海沿いの部落で被災以前は緑豊かな部落だったが、津波によってほぼ全てが呑み込まれ景色が一変。何もかもが無くなってしまった。

この部落で大規模農業を営んでいた八津尾初夫さんも例にもれず家の他、ビニールハウスの全てを失い丹精込めた農地も荒れ果てた姿に変わってしまった。
しかし原発騒動が未だ収まらない中、八津尾さんは早くも農業の復興に取り組んでいる。4月には畑の塩害調査としてジャガイモと大根を植え、近いうちには水田の塩害調査として田植えをする予定である。
そんな八津尾さんの描く未来の萱浜の村は、生産・加工・販売を一手に担う経営的農業を確立して若者でも農業で暮らせるようにし、緑豊かな土地で子供たちが育つ村である。また海沿いにレストラン建て、海と松林を眺めながら地元で育った作物を提供する案に想いを馳せる。

順調に復興に邁進しているように見える八津尾さんだが、実は津波により最愛の妻、一子さんを失っている。初夫さんと一子さんは結婚以来、常に新しい農業について話し合い、経営的農業の確立を目指して共に歩んできた。何事にも情熱を傾けていた一子さんの想いを実現させるため、一子さんを失ってもなお、八津尾さんは前に進むことを決意した。

今回の被災で八津尾さんがつくづく感じたことは、地域の和の重みだと言う。被災以前は新年会や花見など何かにつけて地域の方々と行動を共にしていたが、被災して声を掛け合ったり協力してくれるのもまた彼らだった。そんな地域の和が八津尾さんの誇りであり、将来は被災以前よりも素晴らしい萱浜の村を作り上げ、そこで子供たちが育って欲しいと願っている。

ここまでお話を伺って、私は自分の眼が節穴だったことに気付いた。私は淡々と、しかし誠実に対応してくださる八津尾さんを純粋な方だと思っていた。しかし、それは良い意味で違った。ただ単に純粋なだけでなく、悲しみ全てを受け入れた上で、それでも惑うことなく静かに、しかし力強く前に向かっていたのだ。まさに不惑の姿とでも言うべきか。
八津尾さんの当面の目標は萱浜の地を向日葵の花で埋め尽くすことだそうだ。なんでも作付け面積一位は北海道のとある町の21.5ヘクタールなので、まずはそれ以上にしたいとのこと。今夏一面に咲き誇る向日葵を見るのを私は今から楽しみにしている。でも、表面の美しさにだけ惑わされて本質を見落とすことだけはしないよう、気をつけていこうと思う。


2011/05/25

馬と共に、

一人の女性に馬への愛情も写真の経験も圧倒され、逆に心地良かった。

その人はNPO法人「馬とあゆむSOMA」でボランティアをしている中野美夏さん。このNPO法人は震災以前、相馬市を中心に障がい者のためのホスセラピーを行なっていたが、被災後の今、被災馬の救出、保護に奔走している。

出身も育ちも川崎市。しかし父親が川崎競馬の元騎手・調教師だった関係で幼い頃から日常的に馬と接していた中野さんにとって、馬は「家族であり、師匠でもある」と言う。父の実家が南相馬市鹿島区だったため、相馬野馬追祭の際はほぼ毎年帰省し、18歳までは馬に乗って行列にも参加していたという。中野さんは父の死後の3年ほど前、鹿島区に家族と共に移り住むことを決意。馬場も併設された海沿いの新築の家に2頭の馬を飼育して暮らしていた。そこに襲ってきた今回の津波。被災して家も愛馬も失ってもなお、「馬がいるから頑張ろう」と思え、生き残った馬の世話を続けている。
実は私は子供の時から馬を見るのが好きで、中学の卒業文集では将来の夢を「馬の牧場経営」と記し、大学時代は休みの度に馬小屋に籠っては馬の世話をしホースラバーを自称していたが、中野さんの馬への想いにはとうてい及ばず、勝手に負けを痛感していた。

二度目にお話をした時、密かにリベンジを窺っていた。そこで話がちょうど写真の方へと流れていった。聞けば中野さんは幼い頃からカメラを持ち歩いて写真を撮っていたという。野馬追や馬の写真も撮っていたが、カメラの機能には無頓着でオートモードで撮っていたようだ。名誉挽回のチャンスと勇み、写真家として活動していることをいいことに、「今度教えましょうか?」などと軽口を叩いてしまった。謙虚な中野さんはやさしく笑って受け流されたが、馬を撮った写真が何枚か残っているということで早速見せてもらうと、ポストカードにされた写真が眩く輝いていた。朝日を背景に浜を走る馬を撮影した写真なのだけれど、馬を愛し、地元の波と光を熟知し、長年の写真の経験が滲み出た傑作だった。ここに至り、馬を撮ることに関しては経験も圧倒されたと認めざるを得ず、まさに完膚なきまでに叩きのまされ気分だった。しかし不思議と、それは心地良かった。

馬と生き、生かされ、馬に教え、学んできた中野さんの人生。これからも中野さんは誇りとする馬と共に歩んで行くのだろう。
私はと言えば。とりあえず馬の写真を撮っていると気軽に口外するのはやめにしようと思う。少なくとも馬関係者の前では。


★中野さんの馬の写真はこちら→「馬とあゆむSOMAのブログ」


2011/05/23

根を、張る

根を浮かせつつも、大地にしがみつく一本の木。
幹の隣には、一輪の水仙の花。
枝に目を移せば、人知れず芽葺いていた。
そこにあるのは、根を張るものが持っている底知れぬ力。
ふと思う、この地に根付いた文化はどうだろうかと。
これからもこの大地で根を伸ばし、華咲かせられるのだろうか。


2011/05/20

見返りは、求めない

屋内退避指示が解除されても、依然多くの避難者が身を寄せあっていた南相馬市の原町第一小学校。この小学校の入口でバイク好きでもない私が、バイクを見て目を見張った。しかもカブに。

そのバイクはホンダのスーパーカブ50。新聞配達で大活躍している、アレだ。燃費が良く、故障も少ないので、発展途上国でも重宝されている。
そのカブをさり気なく大改造したのが時田昌夫さんだ。この「さり気なく」がポイントで、これはあくまでも個人的な感想だけれども、バイクを改造すると大抵が「品」がなくなる。けど、時田さんは塗装だけに30万、その他を含めると総額40万ほどの大改造をしても見かけは少ししか変わっておらず、シュールさすら醸し出す傑作となっている。時田さんはこのカブを「恋人のようなもの」と言って憚らない。

カブを愛する時田さんは、人の頼みをNOと言えない人情も持ち合わせている。時田さんは原発20キロ圏内の南相馬市小高区出身で、原発が爆発した3月13日に原町区に避難したが、この避難先でこれから遠方に避難する知人3人から小高区内のイヌ・ネコ計25匹の餌やりを頼まれた、危険を承知で17日に小高区に舞い戻った。
戻った小高区では電気が辛うじて来ていただけで、水道・ガスは止まっていた。そこで時田さんは愛車のカブを走らせ、水は山で井戸水を汲んで確保し、食料は隣町の原町区まで買い出しに行き、主にカップラーメンで食いつないだ。この頃時田さんは原発の恐怖に怯え、行政からは見捨てられ、警察・自衛隊からは逃げるように暮らし、四面楚歌状態だった。
だがこの生活も長くは続かず、20キロ圏内が警戒区域に指定された4月22日に終わりを迎えてしまい、荷物をまとめて愛車のカブで原町区へと避難した。

彼の行動は、端から見ると少々愚直だったかもしれない。だが、見返りを求めず為した彼の行動に、私は美しさすら感じる。ちょうど、時田さんが愛車のカブを愛し、このカブで近くの峠や海岸沿いを走って楽しんでいたように。だが今やその峠は放射能で汚染されて立ち入ることはできず、海岸沿いは津波によって景色が完全に変わってしまった。
時田さんが誇りとするカブで、愛して止まない故郷を元の姿で走ることのできる日は来るのだろうか?


2011/05/18

辿り着いた「場所」

ゴールデンウィークに入り全国各地からボランティアが南相馬市に集い始めていた或る日、私は午前中に2つの撮影を済ませ、昼食と一服のコーヒーを頂きに南相馬市原町駅近くの珈琲屋さんに立ち寄った。入ってすぐ、カウンターに独り座る男性が目に飛び込んできた。私はシュールな雰囲気に息をのみ、声をかけるのを躊躇ってテーブル席に腰を下ろした。

その男性がおかわりをマスターに頼む声が聞こえた。見ればお湯割りを呑んでいるようだ。大荷物を背負ってゴソゴソしていた私は独り酒の恰好の標的だったのだろう、早速その男性が
「ボランティアさん?」
と声をかけてくださった。
「いえ、東京から来た写真家です」
そう答え、続けて私のプロジェクトを説明し、お話を伺った。お名前は川田雅信さん、60歳。聞けば、川田さんは日本各地の原発の労働に30年以上も従事していたと言う。原町で原発労働者にお会いできるとは思っていなかった私は小躍りしたが、このまま話を続けるには困ったことがあった。まだ昼過ぎだというのに川田さんはすでに酔っておられたのだ。私が話の真偽を訝っていると、こちらの空気を察した川田さんは原発手帳を見せてくれた。事実を確認した私は、そのまま話を続けてもらった。
原町は奥さんの故郷であり生活の拠点としていたこと、その奥さんを3年前に亡くしたこと、もう今は原発労働に従事していないこと、長年の原発労働で慢性的な倦怠感に悩み薬を毎日服用していること。
今は市役所で、震災後に欠配となっている各社の新聞を毎朝配るボランティア活動をしていると言う。なんでも、市役所前には被災状況や原発の状況に憂慮している大勢の市民が朝の3時前から並び混乱するので、列の整理と、ゴミ拾いをしているのだそうだ。理由は「他に出来る人がいない」ので。
そして川田さんの「誇り」をお尋ねすると、今やっているボランティア活動だという。
私は少し不審に思った。ついこの間始めたボランティアが誇りなのか、と。私は繰り返し尋ねたが、答えは同様だった。
堂々巡りになっていったので、翌朝市役所前でお会いすることを約束して私は珈琲屋を出た。

果たして翌朝6時前に市役所に行くと、そこには川田さんが誇らしげに活動している姿があった。前日にお会いした際の酔っている姿からは打って変わって、テキパキと動き、「ありがとう」と声をかけられると笑顔で応えていた。
この姿を見て私は思った。原発での仕事とは異なり、人と触れ合い、人から「ありがとう」言われるのが川田さんは嬉しいのではないか、と。奥さんを亡くした今、この「場所」こそ彼が寂しさを紛らわすことができ、胸を張って働ける場所なのではないか、と。私の言葉に、川田さんは直截には返事をしない。ただ、「そうかもね」とポツリと答えるだけだった。

南相馬市の屋内退避指示が解除されたのを受け、市役所 前の各社の新聞配りは予定ではもう終わっているはずだ。彼がまた、彼の「場所」に辿り着けることを、切に願う。


2011/05/16

もらった命

命は与えたり、もらったりするものではないが、弱冠20歳の青年は『もらった命』と臆することなく言ってのけた。

津波が全てを呑み尽くし、その後に残った瓦礫も自衛隊によって片付けられた4月下旬の南相馬市原町区渋佐。私はここで荒くんと出会った。彼を一目見て、彼の大きな体躯から溢れる愛くるしい笑顔と、奥底に潜む強い意志に惹かれた。
小さい頃から機械を触るのが好きだった荒くんは、地元の高校を卒業後に就職し、自宅のある渋佐から通って勤めている。この日は仕事がお休みで、近所付き合いがあるお宅の家の片付けを手伝っていた。
彼の手が空いた頃合いを見計らって早速、撮影を申し入れたところ快諾してくれた。一通りお話を伺った後、撮影を兼ねて地元の被災地を案内してもらうと、彼の地元愛が堰を切ったように流れ出し、多くの思い出を語ってくれた。
「この季節になると村は田植えとその準備で大忙しだった」、「村人のほとんどが顔見知りで、年長者にかわいがってもらった」、「この地元を離れるつもりは全くない」、等々、もうこれでもかという位に地元愛のオンパレードだった。
そして彼の誇りは当然、地元。彼の夢は自分を育ててもらった渋佐を「20年、30年かかるか分からないが、元通りにすること」だそうだ。
彼が愛してやまない地元での撮影中、突然分厚い雲間から光が降り注いできた。光をバックにした荒くんは、まるで地上に舞い降りてきた救世主のように見えた。

帰る道すがら、逞しく生きる雑草を見て彼は独りごちた。
「草は強ぇーなぁ」
続けて言った。
「自分の命は亡くなった人々からもらった命。代わりに生きて行くつもり」と。
彼が背負ったものの大きさを危惧したが、彼ならやってのけると信じ、私は彼に別れを告げた。

2011/05/14

巡りめく

時は平等に刻まれ、季節は移ろう。
咲く花あれば、散る花もある。
逝く者もいれば、生を授かる者もいる。
巡りめく、この世界。

2011/05/11

サナギから蝶へ

子供でも逆境を糧にして成長するんだなと、まるで我が子のように感心した。

南相馬市の原町第一小学校は避難所となっており、震災から1ヶ月近く過ぎた4月上旬になっても市内外から100人以上の避難者が身を寄せ合って暮らしていた。この頃になると避難者たちは、家に戻れないことや家族を失った現実と向き合いつつ途方に暮れていた。加えてこの小学校は屋内退避指示圏内であっため、 避難所となっていた体育館の窓は終日閉め切られており、重苦しい雰囲気が漂っていた。

しかしこの体育館の空気を一人、颯爽と切り裂く者がいた。ななちゃん、4才だ。ななちゃんは体育館の中を歩き回っては誰彼構わず喋り、生活空間を仕切る段ボールの「壁」をものともせず遊んでもらっていた。ななちゃんが「遊んでもらっていた」と言うより、避難者が 「遊んでもらっていた」と言う方が正しいかもしれない。実際、ななちゃんと接して避難者は「元気をもらった」、「ななちゃんがいて良かった」 等々と言っている。私もななちゃんに「おにいちゃん」として遊んでもらって、一日の疲れを癒してもらった身である。

避難所の多くの人から愛されていたななちゃん。しかし母の柴口明美さんによると、被災以前は内気な子で人見知りも激しかったそうである。それが震災後、原発20キロ圏内の南相馬市小高区に住んでいた柴口さん一家は避難を余儀なくされた。ななちゃんはそうやって避難所を点々とする間に、自分なりに考えて行動するようになっていたのではないか。母親の明美さんはななちゃんの変化をそう捉えている。そんな、サナギから蝶に脱皮したかのように成長した娘さん、ななちゃんが、明美さんの誇りである。

私は「おにいちゃん」として、ななちゃんの今後の更なる成長を楽しみにしている。が、先日電話でななちゃんと喋った時に、「おにいちゃんだよ~」と声をかけたら、「どのおにいちゃん?」と返されてしまった。
さすが、人気者。

2011/05/10

想いやる気持ち

黙々と作業する団員らの姿を見て、「彼らを駆り立てるものは何であろうか」と想った。

4月中旬、南相馬市原町区の消防団が海岸近辺で依然、行方不明者の捜索をしていた。この頃は30キロ圏内が屋内退避指示地域だったため、自衛隊は勿論のこと、警察による捜索すら行なわれておらず、消防団がボランティアとして活動を行なっていた。
ボランティアと言うと聞こえは、良い。だが活動内容は行方不明者の捜索、そして行方不明者の多くは遺体となって発見されることが多いのだ。ましてや放射能という目に見えない危機と隣り合わせの地域である。多くの団員は平時には別な仕事をしているため、彼らの精神的負担は想像以上であろう。

そんな彼らの活動を目の当たりにした時、私は迷わず彼らの元へ歩み寄り、分団長の大川博さんにお話を伺った。大川さんは原町区在住で、地震・津波の大規模な被害は免れ、震災直後からほぼ無休で活動に参加している。仲間の団員の中には、家族を避難先に置いて自身だけ原町区に戻り、活動に参加している者もいるという。大川さんは、自分にとって、この活動とこの活動に参加している団員が誇りである、と言い切った。そして消防団の活動に加わっている理由をお伺いすると、家族の元に遺体を一日も早く戻してやりたいという、遺された家族を「想いやる気持ち」からだと言う。

これを聞いて私は、はっとした。「想いやりの気持ち」とはとても日本人的な精神性だと私は思う。私は自身の想像力の甘さを自戒すると同時に、この時一つのことを思った。彼らが今後直面するであろう精神的苦痛を。
願わくば、無理をすることだけは避けて欲しい。

2011/05/06

街角の光

真昼間にもかかわらず、そのお店は輝きを放っているように見えた。

4月上旬の南相馬市原町区。その頃原町区は原発事故によって屋内退避区域に指定され、区内の人口は激減していた。市民は放射能の見えない恐怖と不安に怯え、多くのスーパー、コンビニは閉まり、その他の店もほとんど休業していた。

そんな状況の中、町外れに悠然と開店している店があった。店の名は『食事処いずみ』。店主の大戸直正さんは、奥さんと共に店を切り盛りしている。私は正直、この地域を覆っていた不穏な雰囲気に疲れ、ましてや定食屋さんでゆっくりご飯をありつけることなど諦めていたので、この店が「街角の光」に見えた。

お店は地震による被害が少なく翌日から開店したが、原発事故後に仕入れが困難になり、大戸さんは不本意ながらも山形へ避難した。しかし、町の活気を取り戻すためには、外からの声援だけでなく地元から発信する必要性を痛感したという。そうして南相馬へ戻り3月の最終週に営業を再開した。

いまだ食材の調達が困難な状況ではあるが、職人気質の大戸さんは以前と変わらず、お客さんに美味しいもの提供し、また来店してもらえるようにと、調理に励んでいる。

大戸さんにとって誇りであるこのお店は、私にとってそうであったように、地元の人々にとって「街角の光」となっているだろう。


2011/05/04

悲鳴

すべてを飲み尽くした津波。

先人たちが開拓した水田も容赦なく飲み込まれた。

水が引いたあと、田んぼが塩害でひび割れていた。

まるで、悲鳴をあげているかのように。
 
 
 

2011/05/02

もののふの魂

今の時代、「サムライ」だの、「もののふ(武士)」だのと言っているのを聞くと仰々しく思えてしまうものである。しかしお会いして思った、この人は筋金入りだ、と。

西護さんは南相馬市原町区石神に住む野馬追のメンバー。15歳の初陣から数え、昨年までで62年間連続で出陣している。

野馬追とは一千余年の歴史がある旧相馬藩領の神事・祭りで、甲冑行列や神旗争奪戦などが執り行われる。西さんにとって野馬追とは「相馬藩の歴史」であり、「伝統文化」であり、「サムライとしてそれらを守るために血が騒ぐ」のだと言う。

普段の西さんは小柄で、柔和な顔をして喋るおじいちゃん。震災後も20キロ圏内も含め、仲間と共にこの地域に残された馬の救出に奔走した。これも「武士の情」か。しかし馬と接する際は顔が引き締まり、武士の威厳を感じさせる。

今年は野馬追の開催は危ぶまれているが、西さんに宿り、西さんが誇りとする「もののふの魂」は、一生揺らぐことは、ない。