2011/08/30

狭間

津波に襲われ廃墟となった老人ホーム。
3ヶ月を経ても時は止まり、数々の痕跡が残ったままだった。
圧倒的な力で押し寄せてきた津波と片田舎で幸せな余生を送っていた老人たちを、僕は想起していた。
その狭間でふと思った。彼らは何処に行ったのだろうか。
そしてヒトはこれから何処へ行くのだろうか。



2011/08/25

遠い日の忘れもの

遠い昔の忘れものを相馬で見つけるとは思いもしなかった。

今回のプロジェクトで高校生の写真を撮りたいと漠然と思っていた。そして意中のモデルはサッカー部員だった。しかし道端でサッカー部員に会うことはなく、痺れを切らして直接コンタクトをとったのが小高工業サッカー部だった。小高工業は校舎が警戒区域内にあるため現在は相馬を中心に福島、郡山等でサテライト授業を行なっている。部員は各々の校舎に散り散りになっているが、中心校がある相馬が部員数が多く、3年生は7人いる。

僕のプロジェクトの説明をした後に撮影に応じてくれたのが3年生の齋藤一樹くん。小高区出身で小学1年生の時に兄の影響でサッカーを始めた。震災後、齋藤くん一家は父が務めている会社の本社がある長野に避難した。このまま長野に移住して親も転勤、齋藤くんも転校と決まりかけた頃、齋藤くんは、小高工業がサテライト授業を行ないサッカー部も存続可能であると知って、親に福島帰郷を願い出た。やはり2年続けた小高工業サッカー部の名を背負って試合に出たいと。 親も齋藤くんの思いを汲み取り、サテライト中心校がある相馬に引っ越した。

齋藤くんはゲームキャプテンを務めており、チームのムードメーカー。震災後、齋藤くんが中心となってバラバラになっていた部員に連絡をとって部員たちを繋げた。だが各々の家庭の事情を最優先し、福島に残るよう説得することはしなかった。それでも3年生は13人の部員が残った。
大会が始まった今は福島県内に散らばっている部員に連絡をとってチームを引っ張っている。どのようにと尋ねると、「気持ちの面で意識を高め合ってる」と。特に環境のハンデを言い訳にしたくないと皆で言い合っているという。幸い練習量は例年と同じ位こなすことができ、チーム全体の連携も先週末の試合で思った以上に取れていたという。
就職や故郷のことなど不安な面はあるが、今はサッカーのことだけに専念していると齋藤君は語ってくれた。

だがふとした瞬間、隣人の物音が筒抜けの仮設住宅で「なんで自分はここにいるのだろう?」という感覚に陥ることがあるという。
奇遇ながらこの感覚、私も高校時代に陥った。皮肉なことにその時私はサッカーの試合中に選手ベンチ裏だった。中学から本格的にサッカーを始めた私は、いつしか高校サッカーで国立競技場に行くのを夢見ていた。だが高校に上がってから怪我が続き、高1の時に膝の手術を受けた。八ヶ月かかって復帰した後も、捻挫、脱臼と冗談みたいに怪我を連発し、終いには高3に上がる直前に再び膝の大怪我に見舞われ、サッカーを断念した。そんな僕が同級生の最後の戦いを一般客としてベンチ裏から見ていた時に「なんで自分はここにいるのだろう?」と思った。
もちろん、私は家に帰ることができるし、震災で失った人もいないので、齋藤くんの思いと並列して語るのは失礼かもしれない。しかし齋藤くんも言っていたけれど、あの頃の僕にとってはサッカーが全て。それが取り上げられた喪失感はハンパではなかった。その頃の自分の姿と、小高工業サッカー部の子らの今のこの逆境の姿を重ね合わせてしまっているのかもしれない。まるで高校生の時の僕の忘れものを見たかのように。

そうした極めて個人的な思いもあり、彼らの最後の挑戦を温かく見守りたいと思っている。正直、相馬とはいえ福島県内で屋外活動することに諸手を挙げて賛成できないし、放射線量が高い郡山でわざわざ予選を開催することには納得できないでいる。でも。小高工業の名前を背負って戦う決意をし、国立を夢見るサッカー少年たちを僕は止めることはできない。サッカーができない苦しみを人一倍知っているから。

そんな齋藤くんの誇りは『仲間』。チームが揃わないとサッカーはできないし、チームメイトは練習もプライベートも常に一緒だからとのこと。この状況下で仲間とサッカーをできることの喜びを噛みしめているのは想像に難くない。実際練習を見学させてもらっていても、グランドは相馬東高校の空いた時間しか使用できないのにもかかわらず、皆明るく元気に、そしてサッカーを楽しんでやっていた。齋藤くんは『仲間』が「一生の宝ものになるっす」と言った。
練習後、そんな齋藤くんと一緒にチームキャプテンの長尾雄太くんが撮影に応じてくれた。最初はお互い照れていたが、そこは気心しれた間柄、すぐに気持ちを一つにしてカメラの前に立ってくれた。
後日プリントを見て気付いた。僕は彼らに若かりし頃の見果てぬ夢を託していたことに。勝手に夢を託されてもいい迷惑だろうが、正月の国立までとは言わないまでも一日でも長く『仲間』と共にサッカーを続けられることを祈っている。

写真:齋藤くん(右)と長尾くん(左)



2011/08/19

末路

水田の上で行き場を失った大型漁船。

まるで太平洋戦争末期に散った戦艦大和の運命のようだった。

空母を中心とした航空戦が主流になりつつあった時に、国を挙げて造られた時代遅れの巨大戦艦。

その末路は片道燃料での玉砕だった。

技術にしろ物にしろ、時代や場所に見合ったものでなければ、それはもはや無用の長物でしかない。



2011/08/15

幸せなループ

幸せな関係を、相馬の港町で見た。

その幸せな関係は相馬市のみなと保育園にて育まれている。みなと保育園は松川浦から目と鼻の先にあり、距離にすると100メートル足らず。幸いちょっとした高台にあるため保育園は津波の被害を免れた。海が近いからか懸案の放射線量も、毎日行なっている独自検査によると比較的安定している。

この保育園で働く佐藤あずみ先生は、幼い頃はみなと保育園に通っていた。家は保育園から数百メートルの場所にあり、まさに地元っ子。あずみ先生は小学校に上がってしばらくした頃には「保育士さんになりたい」と子供ながら思い描いていた。この思いは高校生なっても変わらず、高校卒業後は宮城県の短大まで自宅から通い、卒業してからはストレートでみなと保育園に戻ってきた。
保育士さんを志した理由は、あずみ先生曰く「子供が好きだから」。長年描いてきたお仕事は大変だがやりがいを感じていると言う。

実は私はこの保育園を訪れる前にあづみ先生と3回お会いしている。初めてお会いしたのは、あづみ先生が友達と仙台に車で行く際にたまたま乗り合わせた時で、あまり喋る機会もなかった。2回目は以前ブログで紹介した相馬のバー『101』にふらっと寄った時。この時あづみ先生は女友達と楽しく飲んでいて、図々しく混ざって楽しめば良いものを、シャイな僕は短い挨拶を交わした後、独りカウンターでチビチビ酒を呷っていた。3回目は僕が相馬の駅前のラーメン屋さんに行った時。あづみ先生はご家族で夕食中で、この時も短い挨拶を交わしただけだった。お会いした3回とも「こんど写真を撮らせて下さいね」と軽くはお願いしていたが、実現はしなかった。
ところがふとしたきっかけみなと保育園に行く機会ができ、そこで撮影は実現した。働いているあずみ先生はザ・保育士さんとでも言うべきか、とにかく明るく元気。それもそのはず、みなと保育園の雰囲気全体が明るく元気なのだ。子供は港町なため男の子も女の子もやんちゃ者が多く、都会の親なら吃驚するような豪快な遊びをする。撮影時も腕を掴まれるわ、気づいたら背中に子供が乗っかって来ているわ、と、何かと体力を使わせてもらった。
年間、いろいろなイベントを企画してるみなと保育園。たとえば、野馬追祭の前には、子供たちに武士の恰好をさせるミニ野馬追を企画、その際園長先生は自らダースベイダー調の武士に扮して音頭を取った。そうした園長先生のおおらかな気風がそのまま保育士さんに反映されている。

地元の明るく元気な保育園で育ち、大人になって明るく元気な保育士さんとして働き、明るく元気な子供を育てる。ありふれた話かもしれないが、人々の生活を根こそぎ奪う原発事故の後も、脈々と続いているこの幸せなループが僕には愛おしい。



2011/08/08

献身の精神


このシリーズを始めて以来、僕は看護婦さんを探していた。別に個人的な趣味ではなく、震災後、原発事故後のこの状況で病院に残っている方はさぞ誇りを持って働いているだろうと思ったからだ。だが出会いはいっこうになく半ば諦めかけていた頃、取材先の相馬の幼稚園で看護学校の学生さんが実習に来ていると聞き、早速紹介して頂いた。

実習に来ていたのは相馬看護専門学校3年生の6人だったが、4人は宮城県から通っているとのことで、残りのお2人にお話を伺う。その内のお1人が鎌田美咲さん。出身は警戒区域内の小高区で、家は津波により流されてしまい原町区で暮らしているという。私のプロジェクトの説明をした後に、「あなたの誇りは何ですか?」と尋ねると、困惑しつつも「看護師を目指していることです」と答えてくれた。さらに「失うものは何もなく、前に進むしかない」と語り、しっかりと前を見据えていた。どうせ撮影するなら制服姿でとお願いしたら、ちょうど2日後は学校で自習とのことなので、さっそくアポをとった。

当日学校に行って鎌田さんにお会して話してみると、ちょっと様子が変、と言うより声がほとんど出ない。どうやら風邪をこじらせたよう。幸い撮影は可能とのことなので撮影を済ませ、インタビューは後日することに。

後日お話を伺うと、思っていた以上にしっかり者だった。母親が介護福祉士として働いている姿を幼い頃から見ていたので、「人と関わる仕事がしたかった」からと看護師を高校2年の時に志した。震災前は、看護学校卒業後は隣町の原町の病院に勤めるつもりでいた。理由は、自分を育ててくれた大好きな地元をこれからは自分が支えたいと思っていたから。そして患者さんにとっても、地元の知っている人が看護師としていた方が安心するのではないかと、患者さんのことまでしっかり考えていた。さらに鎌田さんは働く病棟も急性期と決めている。その訳は自分が看護師として見返りを求めているのは金銭的報酬ではなく、「ありがとう」という患者さんの言葉や、患者さんの目に見える回復という心理的報酬であり、そうでないとモチベーションが保てない自分を知っているからだと言う。

これだけ自分の考えを整理できているだけで素晴らしいのに、近い将来看護師として働く覚悟もすでにできていると言う。もちろん仕事は厳しいだろうし、人と向き合う仕事は責任重大なので不安もあると言う。だが学校の授業を通して今まで色々学んだので、誠意を持って向き合えばなんとかなるに違いないと信じているそうだ。鎌田さんのお話を伺っていると、僕が鎌田さんぐらいの年の頃、何も考えていなかった自分がなんだか恥ずかしくもあり、だからこそ今の彼女のこの姿勢は立派だと素直に感心もした。

ここまでお話を伺って撮影の時に鎌田さんの様に納得がいった。制服姿になった鎌田さんはこちらがビックリするほど落ち着いた、堂々たる様だったのである。まるで現役の看護師さん、いや看護師長さんくらいの雰囲気を醸しだしていた。やはり外見は内面を映し出す鏡だなと思った。

インタビューの最後に誇りについてもう一度尋ねると、今度はキッパリと彼女は言った、「自分より他人を優先的に考える看護師を目指している自分」と。この献身の精神、今この時代でとても大事な精神な気がする。そしてこの精神を産み出す大地、文化に人々が今立ち入れないという事実が、あまりにも重い。





2011/08/05

相馬の人情

江戸っ子は「義理と人情と痩せ我慢」というが、相馬にも相馬の人情があった。

佐藤浩美さんは夫の浩治さんと相馬市で上下水道の設備会社を営んでいる。夫は生粋の相馬人だが奥さんの浩美さんは原発20キロ圏内の南相馬市小高区出身。この地域の女性はとても保守的で、「男性の一歩後ろを歩く」感じで、初対面の人ともあまり話さない。だが浩美さんはまるで異星から来たかのように初対面の僕に話しかけてくれ、自然と浩美さんへのインタビューに変わっていた。

浩美さんは相馬で旦那さんと仕事をするにあたって、相馬の独特な人間関係に馴染むのに時間がかかったという。なんでも相馬藩の城下町だった相馬市民はプライドが高く、よそ者を受け入れない気風だそうだ。仕事に関しても近隣の原町の人は相馬に支店を出すが、相馬の人はほとんど原町に支店を出さないと言う。客は取りに行くものではなく、来るものだという考えなのだという。この気風は佐藤さんの会社にもあり、「値段が高い安い言うお客さんは相手にしない。ウチはアフターケアがウリなんです」と言った。

営業先で女性であるだけで浩美さんは蔑まれ、さらに小高区出身であることが分かると下から舐めるように見られたものだと言う。東京でしばらく仕事をしたことのある浩美さんにとってこの経験には困惑したそうだ。だが浩美さんは決して諦めず、必死に相馬のコミュニティに入る努力を続けた。そして数年が経過した後、お客さんを紹介してもらったりと優しくしてもらえることも多くなり、晴れて相馬コミュニティに入れてもらえたという。人情を基にしたコミュニティ内の付き合いは煩わしい時もないわけではない。しかしそれ以上に、コミュニティ内の居心地が良く、今ではコミュニティ内の人情が彼女の誇りにすらなっている。
面白いことに、いまや相馬の人情が染み付いた浩美さんは、たまに東京の雑踏に混じると「落ち着く」と言う。曰く、「何も考えないで付いて歩けば良いから」。東京の育ちの私には東京の雑踏が息抜きとは驚愕だったが、それは古いタイプのコミュニティの本質を示唆しているような気がした。

そんな浩美さんの切実な願いは「普通の暮らしがしたい」ということ。
原発が爆発した後すぐ、佐藤夫妻は千葉県の親類の所へ身を寄せた。だが首都圏の人々が日常を日常として過ごしていることと故郷との温度差に違和感を感じ、「残っている人々が苦労しているのにこんなことをしている場合でない」とすぐに故郷に舞い戻った。
そうして今、原発事故から4ヶ月以上が経過しても未だに「普通の暮らし」は戻っていない。小高区の親類は未だに故郷に帰ることが叶わず、お客さんも完全には戻ってきていない。

写真撮影は生粋の相馬人の旦那さんと、相馬の人情に触れることがお仕事の事務所で行なった。この時代に珍しく大きなダルマさんを前にして。ダルマが8つ置いてあるのは「『七転び八起き』の精神なのだ」と笑って言った。
「『七転八倒』になりませんように」など戯れ言を言い合いながら、僕はシャッターを押した。


2011/08/01

執着

荒れ果てた北泉の浜。  
火力発電所は津波に呑まれ、地盤沈下で海も近くなった。 
霧の中にはうっすらと鉄塔の姿。 
ゾンビさながら執着している様が、利権にしがみつく人間の姿とダブって見えた。