2011/06/30

ふたり

震災も原発も、『ふたり』の関係を変えることはできなかった。

松本仁さんは南相馬市小高区出身。原発事故後すぐに隣町にある原町第一小学校に避難してきた。松本さん家のモモちゃんは事故後も松本さんのお父さんと小高の家に残っていたが、小高が警戒区域に指定されてお父さんが新潟に避難するのに伴い、松本さんの元へやってきた。
小高区にいた頃のモモちゃんは放し飼いをされ、自由に動き回り番犬としても活躍してい た。しかしご主人様が避難所暮らしともなると生活は一変。日中は校庭の隅に繋がれ、夜は車中泊。しかも車は地方で幅を利かせている軽自動車なので、動きの 自由度も少ない。そのため、ひとたび松本さんが姿を現すとベッタリ離れないと言う。せっかく散歩に連れて行こうとしてもお座りしているだけで動く気配を見 せないという。モモちゃんは9歳になり熟女の域に達しつつあるが、この状況下では少女に逆戻りのようだ。

では松本さんはどのように感じているかと思い、「モモちゃんがいると生活はどうですか」と私が尋ねると、「気晴らしになる」、「暇つぶしになる」と素っ気ない。だが確かにこれは的をえている。

避難所暮らしも3ヶ月と長くなると、狭い空間での日常の繰り返しでヒマとアキがやってく る。「1日3回食べさせてもらって避難所でゴロゴロしているのはけしからん」と言う人もいるが、実際にお金をあまり使うこともできずやることがないのだ。 しかも原発の収束と故郷への帰宅の見通しが全く立たない状態なので、未来へ向けてのやる気も湧いてこないのも無理はない。

普段からのモモちゃんとのベタつき具合を見ていたのでもう少し引き出そうと、「モモちゃんとは?」と尋ねると「おんな」とまたはぐらかされた。これが最後と「松本さんにとってモモちゃんとはどんな存在ですか?」と尋ねるとやっと本音が出た、「家族」と。

私もイヌを飼っていたので気持ちはよく分る。ポチ(僕の愛犬)はペットではなく家族だった。生活の一部だった。だからこそ、逝ってしまった時の喪失感はハンパではなかった。自分がいかにポチに支えてもらっていたか、ポチから色々なことをもらったか痛感した。

松本さんは避難所暮らしも長くなっている。松本さんがモモちゃんを支えている面も多々あるだろうが、逆もまた真なりだろう。

モモちゃんよ、どうか松本さんが小高に帰り、落ち着くまで傍にいてやってくれよ、と願う。



2011/06/27

継承

福島県の南相馬を中心とした相双地域の人々の魂を記録して回っているが、或る時、日本人の魂が宿っているモノがある、と言われた。そのモノは甲冑。おっしゃった人は甲冑師の阿部光男さん。甲冑師を生業としている人は全国でも5人程しかいないのだが、その1人が阿部さんだ。数人しかいないのにも関わらず、甲冑師名鑑があると言われハテナと思ったが見て納得。名鑑の中のお人は鎌倉やら安土桃山やら江戸の文字のオンパレードで、その中に昭和・平成の職人さんとして阿部さんのお名前も載っていた。この大胆な名鑑の発刊にびっくりしたことはさておき、武士の歴史はそのまま甲冑の歴史であることを目の当たりにしてひどく驚いた。

阿部さん曰く、甲冑は神秘性、機能性、美術性の3点を兼ね備えていると言う。機能性・美術性は見た目でなんとなく分かるが、神秘性だけは謎だったのでお尋ねしたところ、例えば兜の鉢の頂上部分は八幡座と呼ばれ、神が宿るものと考えられていると言う。そしてこれらの甲冑を作る技術は現代の技術をはるかに超えており、中には復元不能なものもあるという。

甲冑に関して素人だった阿部さんは、この技術を習得するのに15年以上もかかった。きっかけは野馬追祭りに出場する際に借り物ではなく自前の甲冑が欲しかったから。型取りをして自力で作ろうとしたがオモチャのような代物かできず、それがきっかけになって甲冑の修復を志した。古代の技術を習得する度にその技術を自分の甲冑に応用し、古代のモノを修復できる喜びに味をしめ、気づけば鎌倉の甲冑師の先生の元へ月に一度、15年以上も通い続けていた。

甲冑師としての魅力は古代のモノを修復する醍醐味と、オーダーメイドで製作・補修した際に型がお客さんにピッタリとハマって喜んでくれることだという。

阿部さんはそんな自身が手で覚えた技術を誇りとし、日本で生まれたこの技術を伝えたいし、ここ相馬では伝えなければならないと言う。なぜなら、甲冑師なくして甲冑の修理は不可能で、野馬追祭りが成り立たないからだ。

その技術の結晶である甲冑を眼の前にすると迫力満点で、今にも武士がこちらに立ち向かってくるかのような錯覚に陥った。まさに日本人の魂が宿っていた。武士が実際に着用していたからというのも一つの理由だろうが、昔の人が手作りで、職人としての魂を注入していたからこそ、日本人の魂が感じられるのだと一人で納得していた。

技術が日々進歩していると言われているが、それはあくまで科学技術に限っただけで、技術全体が進歩している訳ではない。それどころか原子力という人智を超えたパンドラの箱を開け、それを暴発させてしまった人々がいる。

かたや先人の技術の高さに畏敬の念を抱きつつ、古代の技術を脈々と受け継ぎ、その技術を誇りとする現代の甲冑師。

どちらの姿が正しいのかは火を見るより明らかだろう。


2011/06/23

二人のヒミツ

そのお姿を見て、僕は眼を見はった。
短いスカートを着こなし、高いブーツを履き、頭にはおリボン。昔風に言えばハイカラ、今風に言えばファンキー。その身なりで喫茶店でカフェオレを啜るオバチャンの姿を拝見したら、声を掛けずにいられなかった。

そのオバチャンは川村京子さん、南相馬市原町区出身。高校を卒業してしばらくは原町に残っていたが、24歳の時に上京。パチンコ屋を始めとして様々な職業を点々とし、40歳頃に再び原町に戻ってきた。以後は原町でアルバイトをし、今は年金暮らし。独身なので親が残した家に、今は一人で暮らしている。

喫茶店でしばらくお話を伺った後、オバチャンの誇りが姉弟と言うことで、昔生活を共にした家で撮影しようということになり、オバチャンのお宅に場を移すことに。お宅は原町駅から徒歩5分くらいの所と立地は良い。地震の影響もほとんどないそうだ。ただ室内は雑然としている。これは地震による影響ではなく、モノが単純に多いから。しかもその多くが人形・置物だ。絵、小物に始まり、ぬいぐるみ、日本・西洋人形、はたまたちびくろサンボ顔負けの黒人の置物まで多種多様だ。なんでもそれらの収集グセがあると言う。その大半はリサイクルショップで購入したと何故か誇らしげに語ってくれた。独身の寂しさを紛らわせるためモノで囲っていると読んだ僕は、オバチャンに理由を尋ねるが「好きだから」とニベもない。「頼りになるから」と4人の姉弟を誇りに挙げて近況を自慢気に語るオバチャンの姿を見ていたので僕の推察に確信をいだいていたが、オバチャンの答えは変わらず。答えは重要ではないと気付いた僕は、それ以上の問をやめた。

その後撮影に移り終盤に差し掛かった頃、僕があるお願いをした。オバチャンのとあるお姿を撮影したい、と。だがオバチャンは何度お願いしても頑なに僕のオファーを断った、名誉に関わると。それ程でもなかろうにと思ったが、それまでの撮影に十分手応えを感じていた僕は諦めた。
東京から遠い原町のオバチャンと僕の間に2人だけの秘密があるというのも、オツなものだと思う。


2011/06/20

見えない恐怖

遊ぶ子らが誰もいない小学校の砂場。
見た目は以前と何も変わらない。
だが、確実に放射能に汚染されている。
これが放射能の恐ろしさ。

枝垂れ櫻は今年も変わらず、頭を垂れて花を咲かせていた。

※原町第一小学校にて、2011年4月撮影


2011/06/16

ディープインパクト

ターフを雷光の如く駆け抜け、競馬ファンに数々の衝撃を与えた平成の名馬、ディープインパクト。その名前を堂々とラーメンに使用するのだから、大将の度胸は半端ではない。

屋内退避指示が発令されていた4月上旬の南相馬市原町区商店街にて、道端にラーメンのノボリがはためくのを見て僕は色めき立った。この頃は数件の定食屋さんとコンビニが営業を再開していたが、ラーメン屋さんが始めているのは見たことが無かった。僕は自称ラーメン好き。1日3食とはいかないまでも、1日1食だったら毎日でも食べられる。長い海外の撮影でも思い浮かべる日本食は寿司とラーメンである。ラーメンを「絶食」していた南相馬での撮影中に、そんな僕が暖簾をくぐらない訳が無い。
お店の名前は「すず」、カウンターのみの7席で、お客さんは僕1人。期待を膨らませてメニューを見やると少々落胆した、醤油、味噌、塩味が列挙してあった。これはあくまでも個人的な印象だけれども、色んな味を手広くやってるお店はイマイチな味が多い。そんな時に飛び込んできた文字、「ディープインパクト」。味の想像は全くできないが、競馬ファンのみならずともこのネーミングに、大将の意気込みを感じることができると思う。僕の中ではほぼ決定していたのだが、一応大将に尋ねる。
「ディープインパクト」って何ですか?
「辛いのが平気だったらオススメです」
辛いラーメンは好きな方なので注文をし、お客さんが僕1人なのをいいことに大将に話しかける。お名前は鈴木修一さん。10年ほどの下積みを経て、お店は昨年10月にオープンしたばかり。やっと地元の方々に「すず」を認知してもらった頃に襲ってきた地震、そして原発問題。被災後材料が手に入らずお一旦店を閉めたが、「この味を諦めずに続け、皆さんに安らいでもらいた」いと思い直し、営業を再開したと熱く語ってくれた。この大将、一目見た時にも思ったのだが、お話しをしていて確信した。ちょっと変わってる、と。ヒゲ面はどのラーメン屋でもトレードマークのようなものだが、細身なのは珍しい。取っ付きにくい風貌だが、話してみると突拍子もないことを言ってみたり、愛嬌のある笑顔を浮かべる。この大将と、狭いながらも妙に居心地が良いお店の雰囲気につられ、長居するお客さんも多いと言う。
そして肝心の「ディープインパクト」とご対面。色が辛さのせいかやや赤い。まずはスープをすする、美味い。辛さの中に様々な味が飛び交っている。そして麺は太麺でコシがあり、スープと絶妙なハーモニーを奏でている。これは「ディープインパクト」の名に恥じない衝撃、気づいたらスープまで飲み干していた。これは僕が行きつけにする程の味で、食後に「美味しいですね」と大将に声を掛けると、照れながら「ディープは5年くらい前に開発してたんですよ」と笑って答えた。
後日、再来店した時に大将の誇りを聞いてみたところ、答えは「地元」。大将にとって地元の原町は「家族に例えると母親のよう」であると言う。言い得て妙なり。そして「生まれてきてから築き上げてきた地元を守りたい」と思い、お店を再開することでその先陣を切りたかったようである。

ここまで興味深いことを語ってくれるので撮影を依頼したところ、快諾してくれた。大将の誇りである「地元」を守るお店を背景に撮ろうということになり、お店の前に立ってもらうと、、、、決戦前のような形相で僕に向かってきた。シャッターを切りながら可笑しくもあったが、十二分に大将の思いが伝わってきた。

味も大将も、ディープインパクトだった。


2011/06/13

我が人生に悔いなし

震災直後、まだ僕が東京で何をすべきか悶々としていた頃、早くから救援活動を組織した人がいた。そしてその人達が僕に「近い人」だったのが嬉しかった。

その人は大土`雅宏(おおどまさひろ)さん。南相馬市鹿島区出身で自身も被災者。震災以前は相馬で服屋や、仙台でヒップホップアーティストのマネージャーをしており、震災当日は青森で物産展の手伝いに行っていたため、直接の被災は免れた。停電の最中携帯で集められる限りの情報を集め、自分が何をすべきかを考えた。そこで「ヒップホップは自分たちだけのものではない」と思い直し、救援活動に奔走することを決意。BOND & JUSTICE(絆と正義)という団体を結成し、今までの人脈を最大限に駆使してネットワークを構築、被災地に救援物資を運び込んだ。震災直後原発の影響で陸の孤島となっていた南相馬にも市長に直接掛けあって、一週間以内には物資を送り届けていた。以後も福島のみならず宮城・岩手の被災地にも物資を送り届け、その量は4月上旬までに100トンにも上る。

僕は大土`さんの活動を早い段階からツイッターで知っていた。自分もヒップホップが好きで、普通に歩いていてもお巡りさんに呼び止められてご質問を受けるので、大土`さんがヒップホップ周辺の人を集め、自分ができない被災地の救援をやっているのがなんだか嬉しく思ったのを覚えている。しかも大土`さんが僕の仲間の知人であったので、これはもう写真を撮らせてもらわない訳にはいかないと思い、オファーを出した。

僕が初めて大土`さんにお会いしたのは、大土`さんが南相馬市役所に罹災証明書を取りにきた4月下旬のこと。多くの人が出入りする中、一目見て同じ匂いを感じ取り気がついた。イカツイ人を想像していたけれど、意外と大人びた感じの人だった。話しぶりも理路整然としており、自分のこと、活動のこと、地元のこと、原発のことを分かりやすく話してくれた。
しかし普段の大土`さんは違う。どちらかと言えば、と言うか完全におちゃらけている人、良い意味で。色んなことを笑いに転換して周囲を和ませ、自分も楽しんでいる。この爆発的な笑いのエネルギーと鬱積した憂いが同居しているからこそ、過酷な被災地での活動を可能にしているのだろう。

そんな大土`さんの誇りは「自分の生き方」。ポリシーしかり、人間関係しかり、経験しかり、自分が歩んできた生き方がこの活動をさせている。BOND & JUSTICE の活動は「自分というフィルターを通して表現」できているし、偽善からではなく自然に始めたものと言う。

この「生き方」を象徴する写真として、各地を走り回ったBOND & JUSTICE号の前でお仲間と共に大土`さんを撮影させていただいた。撮影の初めはお二方とも真面目に立っていたが長続きするはずもなく、しっかりおちゃらけてくれた。写真の手前が大土`さんで奥がRYOさん。

BOND & JUSTICE のHPはこちら → 東北関東大震災支援隊本部 BOND & JUSTICE


2011/06/09

海とは

「あれはさすがにブルった。」
10メートルほどの大津波に向かって船を出して挑んだ時の山岡宏直さんの感想である。

私が山岡さんに初めてお会いしたのは撮影の前夜。相馬のお店で独りカウンターで待っていたところ、ひと際デカイ2人組の姿を目にし「来たな」と確信した。長年の船上の風格が滲み出ていた。連れの方は従兄弟でこれまた漁師の方。その日は金曜の晩、どうやらすでに一杯引っかけて来たらしく、山岡さんは最近始めた相馬の火力発電所での仕事で腕がアザだらけだと上機嫌で言った。なんでも船上と同じ感覚で動くと狭くて腕をぶつけるらしい。
山岡さんは相馬は原釜の船方。代々漁師の家に育ったが、二十歳くらいまでは漁師とは無縁の生活で、本人曰く「遊んでいた」。彼の風貌を見て相当派手に遊んだのだろうと推察しながら、あえてそれ以上は聞かなかった。が、結婚をしてブラブラしていたところを親父さんが船に乗ることを誘ってくれ、以来常に2人で沖に出て漁をしてきた。

洋上での漁の様子を伺うと、瞳を輝かせながら漁の醍醐味を語ってくれた。狭い漁場での漁師仲間との競争、大漁の際の満足感、洋上で食する魚の味、そして借金すら財産と言ってのける漁師の世界。まるで漁を為すことを奪われているストレスを一気に吐き出しているかのようだった。

実は山岡さんの親父さんは津波により未だに行方不明だ。地震直後に連絡をとって船での待ち合わせを約し、迫り来る津波に怯えながら待っていた。だがいつまでたっても親父さんは姿を見せなかった。ギリギリまで親父さんを待っていたが、手遅れになると仲間の漁師たちに諭され、山岡さんはやむなく彼らとともに沖に向かって船を出した。一人で船を出すのがその時初めてだったら、一人でハンドルを握るのも初めてだった。その初めてが、よりによって迫り来る津波に向かっての航海。モニターで10メートル程の津波と確認しつつ、親父さんがいつも握っていたハンドルにしがみついて大波を乗り越えた。一晩不安な夜を船上で過ごし原釜港に戻ると、そこには変わり果てた港の姿があった。沖に船を出した半数ほどの船は津波に呑まれて戻って来なかった。そして、親父さんは行方不明となった。

山岡さんは「もう少し親父さんを待っていたら」とよく自責の念に駆られるという。家族や仲間は山岡さんをなだめるが、今なお自身がとった行動に疑問を抱いている。

ふと「お父さんを奪った海は憎いですか?」と私が尋ねたところ、答えは否。「では山岡さんにとって海とは何ですか?」と尋ねると、困惑の表情を浮かべ、少し間を置いた後に「仕事場」と短く答えてくれた。海の酸いも甘いも知り尽くした上で漁を続ける者にとって、海とはまさに「自然」な存在なのだろう、訊いた僕が愚かだった。

山岡さんの荒々しくも純粋な姿を見てふと、船方に憧れていた自分を思い出した。仲間と共に荒海をくぐり抜け、一攫千金を手にする。漫画『ワンピース』さながらの世界。
出漁のメドは原発の影響で全く立っていないが、山岡さんは相馬を離れるつもりも、船方として沖に出ることを諦めるつもりも毛頭ない。何年かかるか分からない中でのその信念に、山岡さんの漁師としての誇りを見た気がする。

再出漁の際は是非同行させて下さいとお願いしてある。感動的な再出発の撮影もさることながら、獲れたての魚を船上で食したいという邪念を抱いている自分もいる。その時はせめて、撮影が一段落してから味わうことにしよう。

2011/06/06

呼び声

2ヶ月以上を経ても、墓石は津波で流されたままだった。

生活再建の優先に加えて、津波再来や放射能を案じて、みな手をつけられないでいる。

血縁が濃いこの地域の人々にとって、先祖のお墓を放置する無念はひとしおだろう。

荒涼とした大地で、墓石が夕日を浴びて光輝いていた。

まるで、そこに在ることを呼びかけているかの如く。


2011/06/02

若さの秘訣

お年を伺って驚いた、67歳。その若さの源は馬力ならぬ牛力だと言う。

南相馬市原町区の中心から自転車で15分ほど北西に進むと、民家もまばらになり山も近づき深野地区に入る。そして山へ分け入る急坂の小道を、勢いをつけて駆け上がると風景は一変し、そこには山間の牧草地帯が広がっている。この牧草地帯の一番奥にある牛舎で、門馬敬典さんは100頭以上の肉 牛を飼育しながら生活している。

門馬さんはこの道40年以上のベテランの牛飼いさんだが、家は代々競走馬の育成をしていた。門馬さんもその家業を引き継いだが、ハイリスク・ハイ リターンの不安定な仕事に嫌気がさし、一発奮起して定期的に収入が入る肉牛の飼育を始めた。以来規模を徐々に大きくし、奥さん、娘夫婦の4人で順調に飼育していた。その時に襲ってきた今回の大震災。幸い地震による被害は殆ど無かったが、その後に続いた原発事故の影響で、幼い子どもをもつ 娘夫婦は山形に避難を余儀なくされた。
原発事故後、門馬さんは奥さんと話し合い「最初から避難しないと腹を括って」いた。どんなに餌をやって避難したとしても牛は餌を分けて食べることなどせず、すぐに餌は底を尽きてしまう。門馬さんは牛飼いとして、そんな牛たちを残して避難することなどできなかったという。
2人で残った門馬さん夫婦は、震災以前は4人でやっていた作業を老夫婦でこなさなければならなくなったが、この状況になって門馬さんは気付いた。自分が牛を支えているのではなく、牛に支えられているのだ、と。門馬さんは言う、「大震災で牛がいなくなってしまったら生きる力が無くなってしまう」と。「年をとっても牛扱いをやってられるからなんとか気力が湧く」のだそうだ。そんな門馬さんの誇りは、もちろん牛。

ふと気になって門馬さんの牛のセールスポイントを尋ねてみた。答えに窮している門馬さんを見て愚問だったと思い始めたが、ふと「事故が少ないことかな」と答えてくれた。早期発見・早期治療をモットーとし、事故が少ないのがウリだと言う。「なんだ、あるじゃないですか」とよほどツッコミを入 れようかと思ったけれど、牛を日々観察して状態を確認したり、愛情を持って接したりというのは門馬さんにとっては牛飼いとして当然のことなのだと察し、軽率なことを言わなくて良かったと安堵した。

お話も終わり、お忙しいとこ長々とすみませんと私が言うと、「アッハッハー、バリバリ仕事やってたら体なくなっちめーよ」と豪快に返された。

牛力を漲らせた門馬さんから、若さの秘訣を垣間見た気がした。