2011/07/30

農の民

「さみしいな」

門馬勝彦さんはタバコをふかしながら北泉の浜を見てこう、呟いた。
地元は隣町の鹿島区だが、北泉の浜にもたまに訪れ波に乗っていた。仲間を通じて北泉の惨状を耳にしていたが、「見るのが怖」くて来れなかったという。かつてサーファーが365日集い、サーフィンの世界大会すら開催された北泉の浜の変わり様は門馬さんの予想以上だったようで、しばし浜を見て佇んでいた。

門馬さんは時間さえあれば冬でも波に乗る地元のサーファー。最後に海に入ったのも昨年末だったという。しかしサーファーは門馬さんの素顔の一面で、本業は種苗、野菜を中心とした専業農家。地元鹿島区でお兄さんと二人三脚で規模を大きくしてきた。しかし震災を機にお兄さんは山形へ避難し、現在は門馬さんが中心となって経営している。そしてお会いした時に門馬さんが力を入れていたのがゴーヤの苗。節電グッズとしてにわかに脚光を浴びたゴーヤを被災地福島から全国に届けようと、地元NPOとタッグを組んで販売していた。
そんな門馬さんの誇りは地元だ。門馬さんは鹿島区のことを話し始めるとゆっくりとだが、熱く語る。鹿島区は小さいが海あり、漁港あり、山あり、川ありと自然に恵まれ、自給自足も可能だという。門馬さんは時間があれば海でサーフィンを楽しみ、川で鮎や鮭を以前はいつも釣っていた。

そして撮影はビニールハウス内のゴーヤの苗の前で行った。ハウスの光の状態は抜群だったが、通路に立った肝心の門馬さんの表情が硬い。1ロール使っても変わらず、どうしたものかと困ってゴーヤに近づいてもらったら、急に引き締まった顔をした。やっぱり農民は土に近づいてこそなのだと思った。正直、僕は門馬さんに地元鹿島の浜での撮影をオファーしたのだが一度断られている。忙しいから時間がないとのことだったが、沢山の思いが詰まった浜に行きたくない、撮られたくないという思いがあったのだと思う。しかしハウスで撮影は結果的に正解だった。ゴーヤに近づいた後は誇り高き鹿島の農民になっており、シャッターを数回切った後に確信した、カッコイイ写真が撮れたと。

土地とそこに住む者との目には見えない断ち難い関わりを僕は目の当たりにした。


2011/07/25

夢の痕

誰もいない早朝の烏崎。

以前は沖で多くのサーファーが波を乗り、浜では相馬武士が愛馬に跨り疾駆していたという。

彼らの夢の痕を眺めていると、涙が溢れてきた。

そして陽は、また昇った。
 
 
 

2011/07/21

バカじゃないと



相馬野馬追祭りに関しては「戦国絵巻さながらの光景」とずいぶん前から耳にしていたし興味もあったが、お一人の参加者にお会いして、お祭りに参加している相馬武士の一端を見た気がした。

その方は深野利正さん。生まれも育ちも南相馬市原町の深野さんは、野馬追にはもう30年近く参加している大ベテラン。幼い頃から相馬武士が甲冑を身につけ乗馬にて市内を練り歩く姿に憧れ続け、大人になり経済的に余裕ができてから参加し始めた。
深野さん曰く、野馬追の参加者のタイプは大きく分けると「お祭りが好きなタイプ」と「馬が好きなタイプ」の2つに分かれる。前者は馬を直前に他から借り、後者は馬を一年を通じて飼うんだという。そして深野さんは正真正銘、後者。数年の間は馬を借りて参加していたが、お祭りの期間だけではなく毎日馬と関わっていたいと思い、馬を飼育するようになった。

深野さんのこのスタイルはよく分かる。僕は大学時代は休みとなると馬小屋に泊り込んでいたが、馬に乗るよりも馬を世話している方が好きだった。勿論、馬の世話は簡単ではない。どんなに遅くまで飲んでいても朝にエサをやらなければいけないし、冬の厩舎作業は寒さとの戦いだ。でも馬と触れ合っていると、不思議と作業の辛さを忘れてしまう。

今は町の外れに厩を借り、そこで2頭の馬を飼育している。朝夕にエサをやるにも放牧するにも、何をやるにもすべて深野さんがそこへ通ってやっている。原発が爆発し市民の多くが市外に逃れた際も深野さんは原町に残り、ガソリン不足の際は毎朝1時間以上歩いて通って世話をしていた。馬の飼育と甲冑などの野馬追参加の準備はお金と労力がかかるが、それでも馬を飼育し野馬追に参加するのは、ひとえに「馬が好きで、馬と接するのが好きだから。好きなものは仕方ない」とキッパリ言う。馬が好き過ぎると、「自分のご飯は食べずとも、自分の馬だけは堂々とした肉体にしておきたい」と思うのだそうだ。そして続けて言った「バカじゃないとできない」、と。

こんな深野さんは自分の馬だけではなく、他人の馬も放っておけない性格だ。3月下旬、避難指示が出ていた原発20キロ圏内の国道近くで馬が文字通り「路頭に迷っている」と聞いて居ても立ってもいられなくなり、馬運車を手配してその馬を捕獲して厩舎に連れ帰った。誰の馬か、これからどうするかのアテもないまま。結局はNPOの助力を得て県外に避難させることができたのだが、それまでの間は深野さんがボランティアで飼育していた。

恐らくこの地域の人は『ムダ』を排除するとか『楽をする』と言う現代の価値観で動いてはおらず、逆に『ムダ』と『労力』に美を見出しているように思える。でなければ馬と甲冑を自費で用意した武士が500人以上も集まらないだろう。お祭りには余剰の消費という側面もあるし、「武士は喰わねど高楊枝」とも言う。そんな『バカさ』に僕は憧憬を抱く。そして想像した。僕もこの地に生を授かり育ったら立派な『バカ』になっていたのだろうと。

今週末に開催される野馬追は規模を縮小して行われるため、残念ながら『バカ』が勢揃いとはいかなそうだ。来年こそは、見てみたい。



2011/07/18

中心

僕は自分が何かの中心にいたことなんてなければ、中心にいたいとなんて恐れ多くて考えたことすらない。中心にいる方が傲慢であろうと思っていたが、僕が出会った相馬の中心にいる人物は意外や意外、その中心にいることの責務を黙々とこなし、喜びを噛み締めていた。

震災の混乱が未だに続いていた3月下旬、僕が相馬は中村神社に初めて訪れたとき、所狭しと置かれた救援物資の隙間をぬって電話の応対、支援の指示と実行、はたまた社務を忙しなくこなしていた女性がいた。その女性とは中村神社で禰宜さんをしている田代麻紗美さんだ。

中村神社は一千余年の歴史をほこり、1611年に旧相馬藩主が小高からこの地に城を移してから現在の姿となっている。中村神社では相馬藩の神事である野馬追を代々執り行なってきた。
田代さんは震災以前は禰宜さんとして社務をこなす傍ら、地元の方々に乗馬を通じてホースセラピーを行なっていた。野馬追の行列にも幼い頃から参加し、5年前からは中村神社の禰宜さんとして参加している。
だが震災を境に状況は一変。馬の救出、飼料の配布を始め、地元の方々に救援物資を配るなどボランティア活動がメインとなった。それでも社務はあるわけで、忙しい合間を縫って祈祷やお祓いを執り行なっている。

正直、僕はボランティア活動に奔走している田代さんしか見たことがなかった。その活動自体は素晴らしいものだし、その活動をしている田代さんのお姿も輝いていたのだけれど、その姿を写真に収めようとは思えなかった。なんと言うか、田代さんの奥底に眠る神秘性のようなものが引き出せないと思ったからだ。
そんな訳で撮影をお願いすることもないまま時が徒に過ぎ去っていったが、東北地方が梅雨入りして間もないころ、祈祷が執り行なわれる日に中村神社にお邪魔した。もちろん、祈祷を捧げる田代さんは禰宜さんの出で立ち。東洋の神秘がほどばしる姿を見て思った、やはり禰宜さんは禰宜さんモードになったときに初めてその神秘性を表に出すのだな、と。境内で祈祷が終わった後に、しっかり撮影させて頂いた。

そんな田代麻紗美さんの誇りは「相馬の中心に居れること」だそうだ。野馬追や観光名所として中村神社は相馬で「シンボリックな場所」であり、その中村神社で禰宜として関われることを幸せに思うのだそうだ。田代さんは震災以前から相馬に特別な思いを感じていた。都会とは異なり相馬は海と山が近くにあり、その素晴らしい環境で生まれ育ったこともあり愛着があると言う。

その相馬の野馬追は今週末に開催される。震災と原発の影響があって例年より規模を縮小しての開催となるが、中村神社での総大将出陣式ならびに市内での行列は予定通り実施されるようだ。田代さんも禰宜さんとして参加されるとのこと。その乗馬での出で立ちにも注目したい。


2011/07/14

天職


バーテンというと落ち着いた感じで喋り淡々とお酒を作るというイメージだったが、相馬のバーテンは一味も二味も違っていた。

相馬駅近くにお店を構える『101』はコンクリート造りで入り口は2重扉となっており、高級クラブを連想させる。地方でボッったくられるのも嫌だったが、僕は勢いでドアを開けた。こじんまりとした町のバーを想像していたが、まったくの真逆。ゆったりとした店内にダーツとビリヤードが併設され、天井は高く雰囲気がとても良い。
時間が早いせいもあって人はまばらだったが、お話を伺うには絶好のタイミング。早速バーテンの方に声をかけた。その人は山岡道治さん。このお店でバーテンとして12年以上働き、5年ほど前からは店長としてお店を任されている。
僕は飲み屋と言うとチェーン店か赤提灯が主であまりバーに足を運ばないのだけれど、この人のスタイルは独特だと感じた。カウンター越しにトークをするのはバーテンとして当たり前なのだが、トークがユニークなのだ。
お客さんの話を聞くモードもあるが、だんだんエンジンがかかってくると自分でボケて勝手に盛り上がる。若いお姉さんがくるとイジって楽しむ。そして馴染みのお客さんが団体で来ると、仕事場からいつの間にやら離れ山岡さんまでパーティールームに消えてしまう。山岡さんが不在の間もオーダーは入るわけで、他のスタッフの方がマニュアルを見てお酒を作っている。それを見ていて、僕は思わずクスクス笑ってしまったものだ。このスタイルが相馬で主流だとは思えず山岡さんのオリジナルなのだろうが、不思議と店は夜になるほどお客さんで賑わい、山岡さん目当てにくる若い子も多い。
お酒を作るときは一変、阿修羅の如く手で次々とお酒を注ぎ、その速さ、丁寧さ、味は申し分がない。もちろんこの時でさえ口は動いているのだけれど。

山岡さんのお母さんは美容師さんで、その姿を見て育った山岡さんは美容師になりたいと思っていたという。しかし酒好きな山岡さんは、気づけばバーテンになっていた。山岡さん曰く、バーテンは『天職』。その心は単純明快で、「酒も呑めるし商売もできるから」。大阪商人でもないのに誇りを『商売人としての自分』と公言するのにも最初違和感があったが、その働きっぷり、飲みっぷり、喋りっぷりを見ていて納得した。

この店の賑わいは震災前と全く変わらない光景だが、影響が皆無だった訳ではない。山岡さんは津波により父親を失い、原発事故で避難もした。しかし結局また相馬に帰ってきた。
相馬の町や海には数々の思い出や愛着があり、この町を福島県浜通りの最前線として元気にしたいと思っていると言う。

僕はそんな山岡さんの姿を見て、『天職』を見つけ出しそれに生きる人は自然活き活きとするのだなと感じた。そして思った、自分はどうなんだろうと。写真が『天職』なのか未だに分からないが、5年後、10年後も僕は変わらずカメラを持っているのだと思う。



2011/07/11

新しい戦争

皐月晴れの下、南相馬市萱浜で自衛隊による行方不明者の捜索が行われていた。

宮城、岩手両県とは異なり、被曝の恐怖と隣り合わせの作業。

昼休憩の前に、隊員は順次カウンターで放射線量を計測していた。

これは新しい戦争の始まりなのだろうか。
 
 
 

2011/07/07

支え

五月晴れが広がっていた南相馬市。自転車で萱浜の部落を走っていると、ビニールハウスで作業をしている一人の男性の姿を見つけて不思議に思った。ここ萱浜は津波による被害が大きく、行方不明者の捜索も依然行われていた。加えて原発の影響があったので、この頃この地域で農作業をしている人はほとんどいなかった。いたとしても重機で田畑を耕す程度だった。
そんな状況下でのビニールハウスでの作業だ。興味津々で近寄ると、どうやらホースで水を撒いているようだ。早速お話を伺いたい旨を伝えると、水まきで手を離せないが、作業をしながらならオッケーとのこと。ビニールハウスの中へお邪魔すると、一面「何か」がニョキニョキ生えていた。見たこともない光景に、思わずお名前を伺う前に質問していた、「これ、何ですか?」と。「何だと思う?」と逆に返されたが、答えあぐねていた僕を暫く見た後、「アスパラだよ」と教えてくれた。スーパーで並んでいるのとは異なり、イカツくデップリしていて驚いた。

野菜の正体が判明した後、改めてお名前を伺った。その方は田部政治さん、萱浜で専業農家をやってる方だ。田部さんは数年前まで農家と無縁の生活を送っていた。大学を卒業後、愛知県の会社でサラリーマンをしていたのだ。ところが父親の死を契機に会社を早期退職して実家に戻り、新しい農家の礎を築くということで農業の道を志した。農業学校で1年勉強した後に夏はアスパラ、冬は自然薯の栽培を始めた。試行錯誤を繰り返しなんとか今年から黒字に転換と意気込んでいたところに見舞われた津波。家は全壊となり、9つあったビニールハウスも5つは流されてしまった。そしてその後の放射能による汚染。田部さんは一時期農家を続けることをほとんど諦めかけたが、そんな時にハウス内で見た一つの光景。なんと津波で汚泥がかぶさりひび割れた地面からアスパラがニョキっと顔を出していたのだ。そのアスパラの健気な姿を目にした田部さんは「かわいそう」に思い、「なんとかせねば」と思ったと言う。幸いアスパラの根は残っていたので「終わりじゃない」と思い直した。原発の影響で出荷することはできないが、今秋、そして来年の出荷を目指して継続を決意。以後ボランティアの力も借りて汚泥を取り除き、やっと前日から水やりを開始したと言う。

再開の目処が立ったいま、田部さんは多くの人に支えられていることを実感したと言う。汚泥の除去もボランティアの方々の力なくしてはできず、そして何より家族の支えがなかったらここまで辿り着かなかったと言う。家族に相談することなく早期退職して農家を志した時、原発が爆発して避難した時、そして避難準備地域に指定されながらも農家を続けようとした時、いつでも家族が支えてくれた。田部さんはそんな家族が誇りであると言った。

撮影の後、田部さんはおもむろにアスパラを一本差し出してくれた。一瞬放射能のことが頭をよぎったが、検査で不検知だった話を思い出した。「アスパラはあまり好きくないんだよな」と思いながら齧りつくと、意外や意外、甘く丸みを帯びた味が口の中に広がった。田部さんを支えたご家族と、アスパラを支えた田部さんの思いがこもった味を、しっかり堪能した。


2011/07/04

階段

人々の誇りを伺い魂を記録して回っているが、少なからず拒絶されることがある。

例えば隣人がまだ行方不明なのにそれどころではない、と。

僕が当人でも、同じように答えるだろう。

進んでいくプロセスには段階があるのだから。

彼らを待ち受ける道のりは険しく、孤独だと思う。

どうか一歩一歩、無理なく歩んで欲しいと願う。