2011/11/16

諸行無常

『東日本大震災復興 相馬三社野馬追』と銘打って開催された2011年 の野馬追。
残念ながら規模は大幅に縮小され、特に南相馬市内の行事は形だけのものとなってしまった。
雲雀ヶ原では蹄鉄の音が鳴り響くこともなく、野馬懸は素手で馬を捕えることなく引き馬での奉納だった。

諸行無常を感じさせる螺の音色が、より一層寂しさを増幅させていた。

2011/10/18

カッコイイ武士

野馬追で一番カッコイイ人を撮ろう、そう思って今年の野馬追に行った。
 
総大将出陣祝いの宴でのこと。勢揃いした相馬武士たちは各々が鎮魂や復興など様々の想いを胸に秘めこの日に臨んでいた。特別な年に開催される野馬追、武士たちは一様に険しい表情とピリピリした緊張感を発していたが、中でも一人異様なまでの緊張感、いやスナイパーの殺気にも似たようなものを周囲に放っていた人がいた。その人は宇多郷の螺役長をやってらっしゃる佐藤信幸さん。眼光は鋭く、髪にはアイロンが当ててあり、髭面。一瞬カタギかどうか見紛うような外見で、どちらかと言うと典型的な武士のナリではないかもしれないけれど、現代に武士がいたらこんな感じなのかと思わせる。

自分の中では「この人」と決めたにも関わらずなかなか声をかけられない。スキがないこともさることながら、やはりメディアからも注目を集めているようでインタビューで大忙し。そうこうしているうちに式も終了してしまい、宵の宴に入る前の一服時に思い切って声をかけてみた。

軽く自己紹介をしてからすかさず「一番カッコイイですね」と直球で攻めた。そして「独特のスタイルですね」と畳みかけると、少し照れ笑いを浮かべた後毅然と「自分のスタイルは崩さないです」と粋な答えが帰ってきた。やはり見た目通りで不器用ながらも芯が通ったお答え。その後に野馬追にかける意気込みをお聞きすると「この日のために生活している」「侍を一年間通している」と写真家が喜ぶパンチラインが出るわ出るわ、見た目だけではなく中身もカッコイイ。

お忙しそうだったので続きのインタビューは後日にすることにして、佐藤さんに「誇り」をお尋ねした。お答えは即答で「野馬追」。撮影の希望をお聞きすると娘の想愛羅(ソアラ)ちゃんと一緒にとのことだったので相馬家の陣幕の前で撮影をした。
 
後日、一見地味な螺役という役職についてお伺いすると堰を切ったように話を続けてくれた。近所の螺役の幹部の方から後継者育成のために誘われ中学生の頃から始めたこと、「野馬追は螺に始まり螺に終わる」という言われがあるように重要な役割であること、螺で全軍をコントロールする快感。そして螺役ならではの最大の誤解は「軽装は楽だべ」と周りから言われることだそうだ。確かに行列の時螺役は鎧兜ではなく軽装で臨む。けれど螺役を片手に乗馬し、馬上で螺を鳴らさなければならない。ましてや佐藤さんは行列が終われば鎧兜を見に纏い甲冑競馬や神旗争奪戦にも参加している身である。それは「(言った人を)見返してやりたい」と思うのも無理もない。
 
そして今は古より伝わる螺役の技術を後世に伝えることに励んでいる。その思いは震災後も変わることがなかった。4月16日、宇多郷の螺役は中村神社に集い月例の稽古を行った。野馬追の開催も危ぶまれ、「地震、津波、原発でそれどころではない」との声もあったが、野馬追があってもなくても、やるべきことをやる、(螺を吹くことを)止めてしまってはダメという決意にも似たようなものだったと語ってくれた。
 
日本全国で伝統文化は継承されているがここまでサムライ文化が伝承されている土地は稀だ。人が文化を育み、文化が人を育む。そんな単純明快なことがこの地では継承されてきたことをまざまざと思い知った。

そしてふと思った。なぜ伝統が脈々と紡がれているこの地方が放射能に穢されなければならないのか、と。

物理的に人間が放射能に打ち勝つのは不可能だ。放射能はその土地にあるものを根こそぎ奪い去る。放射能はやがて野馬追をも徐々に飲み込んでいくのではないか、そんな最悪のシナリオが頭によぎる。

そして耳奥には残響のように、佐藤さんがおっしゃった言葉が木霊する。

「遊びでやってるんじゃない、終生相馬家にご奉公するつもりでいる。その忠誠心はあるし野馬追で死んでも良いと思っている。」
 
放射能と刃を交えたらそこは相馬武士、佐藤さんは背を見せることなく最後まで戦うだろう。どうか佐藤さんが放射能相手に鯉口を切ることがないよう、祈っている。

2011/10/11

不動

小高名物の野馬追火祭り。
夕闇に凱旋した武士たちを沿道に焚かれた篝火と火の玉とが出迎える。
古来より絶やすことなく灯していた火。
今年は小高の地で武士を迎えることもできなければ、火を焚くことさえ叶わなかった。
代わりに今年は原町のお祭りで小高の火祭りが再現された。
小規模ながら闇夜に燈された火の玉は夏夜の微風に揺らめき幻想的だった。
お祭も終盤に差し掛かった頃、火種が切れた火の玉が一つ、また一つと朽ちていった。
風前の燭のなか、懸命に燃えようとする火々があった。
動かざる様は、まるで火が伝統を絶やすことを頑なに拒んでいるようだった。
 
 
 

2011/10/03

かけがいのない存在

母親が人の娘と赤子と共に映ったありふれた写真。しかし震災後に出産した東北の多くの母親と同じように、笑みの裏側には様々な想いが詰まっていた。
 
この女性は米澤志寿子さん。生粋の相馬の浜生まれ浜育ちで、市内の言葉とは異なり、直截でありながらどこかおっとりとした浜言葉を明るく喋る女性だ。

地震発生時は妊娠ヶ月でありながら社会福祉協議会のケアマネージャーとして利用者の方と話し合いをしていた。地震後、保育園に預けていた人の娘を迎えに行ったが次女の舞ちゃんしか保育園にいなかった。長女の奈那ちゃんは微熱のため浜に近い米澤さんの祖母の家へ行ったとのことだが、祖母とは一向に連絡がつかな。不安な一夜を明かした後やっと祖母と連絡がついた。奈那ちゃんは祖母にしがみつき襲い来る津波の奔流に耐えていたが、祖父は眼の前で流されてしまったと言う。
 
原発事故後相馬を離れて避難する選択肢もあったが、生まれ育った土地で家族と共に過ごすのが最良と考え、震災以後一度も相馬を離れなかった

責任感が強く、時には育児より仕事を優先してきた米澤さんは、祖父の葬儀を終えた翌日から仕事を再開した。震災後は疲労と心労が重なりお腹の張りを訴えて病院に入院もしたが、6月1日に無事長男の藍希くんを出産した。

九死に一生を得た奈ちゃんは震災以後、度重なる余震の度に怯える毎日だった。大災害で心に深い傷を負ってしまったが、保育園に再び通園するようになるとだいぶ落ち着きを取り戻し、今は前に向かって進んでいるように見えると米澤さんは言う。実際保育園で撮影していた時のこと那奈ちゃんはふとした瞬間にボーっとした表情を浮かべることがあったものの、浜の子らしく思いっきり遊んでいた。

次女の舞ちゃんは震災前と変わらず人見知り娘だが、性格的にはちょっかいを出したりするお調子者だ。撮影の際も最初はまともに撮らせてくれなかったが、2ロール目に入る頃には変顔やら不思議な顔やらをしてくれた。
 
自宅で可愛い娘と息子に囲まれた米澤さんに「誇りは何ですか」と尋ねた。写真家の嫌らしい予測というか期待通りと言うか、米澤さんの答えは「震災以前は仕事だったけれど、今は人の子供たちです」とのこと。震災をきっかけに家族、ことに自らが産み落とした子供たちのかけがえの無さに気付いたと言う。

地元原釜についても伺うと「生まれ育った浜が嫌いだった」とのこと。震災後も相馬に残り続けにも関わらず意外な答え。どうやら浜の言葉は相馬市内の言葉とも違い、小学校時代などはその言葉遣い故仲間に引け目を感じていたらしい。その浜が好きなったのは看護学校に通うために水戸に出た際のこと。街に出て初めて原釜の水・空気・魚が美味しく、隣近所の地域の和の良さに気付いたと言う。 

翻ってこの「かけがいのない存在」への思いというものが、現代社会ではますます希薄になってきているような気がする。家電製品や自動車は膨大な量の広告によって買い替えを迫られ、音楽はコピー、終いにはクローン動物までも技術的には可能となっているこのご時世。実態やらオリジナルを見失いがちになってしまうが、この世には刻一刻と新たな産声が世界中で上がっている実際に私は米澤さんとの出会いで藍希くんという新たな生命と出会うことができ、感じることもできた。なんだ、そう難しく考えるまでもなく、ただ生きとし生る生命はかけがえの無い存在として私の身近に溢れ、いつでも感じることができるではないか。そんなことに気付いたら、米澤さんとの出会いは勿論、私の周りに溢れる人、草花、生命が一層愛おしく思えてきた。
 
そんな単純だけれど大切なことに気付くことができた。その上、写真を米澤さんに差し上げたら「こんな時代だから写真の大切さを今まで以上に感じてます」と喜んでもらった。

だか、二重に得をした気になった。

2011/09/20

原風景

海と山に挟まれし浜通り。
相馬から福島へ向かうと程なく、奥羽山脈に分け入る。
雨上がりの午後、辺りは霧に包まれ神秘的な雰囲気を帯びていた。
霧間に姿を見せる、太古から姿を変えずにそびえる山々と、先人が切り拓いた畑々。
まさに日本の原風景の一つ。
木々や草花は新鮮な水と空気、そして豊穣な大地に抱かれていた。
しかしこの大地はたった一回の、しかし致命的な事故により高濃度の放射能に穢されてしまった。

山は、木々は、草花は、今一体何を思っているのだろうか?


2011/09/09

内に宿りしDNA

「普通」ってなんだろ、そんなことを考えさせてくれた撮影だった。

津波で廃墟となった原町の老人ホームでの撮影も終盤を迎えた頃、一台の軽自動車が入ってきた。震災から3ヶ月以上も過ぎていたこの頃、津波の被害が甚大だったこの地域は一種の観光地と化しており、地元の車のみならず他県ナンバーの車が少なからず往来し、写真撮影やら記念撮影をするのが流行っていた。写真家という「言い訳」を使って他人の敷地をズケズケ歩いている僕が文句を言える身ではないのだが、それほど往き交う多かったため、その一台の軽自動車が入ってきても「また観光客か」くらいにしか思わず、入り口脇で撮影を続けていた。しかし降りてきた一人の若い女性は施設に目もくれず私の方へ寄ってきてこう尋ねた。「何をされているのですか」と。それまで僕は写真家特有の怪しい動きで地を這って天井を撮影していたので、不思議に思うのも無理もなかったであろう。一通り自己紹介をした後、こちらも尋ねてみた。

声をかけてきたのは小高区出身の江井良美さん、22才。家が原発20キロ圏内の警戒区域のため親戚の家がある鹿島区に避難している。何でも震災以前に曾祖母がこの老人ホームに入居しており、震災後何度目かの様子見に来たのだと言う。江井さんは僕のことを施設の職員かと思って声をかけてきたようだった。江井さんにとっては期待外れだったわけだが、僕にとっては飛んで火にいるなんちゃらと言うもの。まさか小高区出身の若い女性から声をかけられるとは予想だにしておらず、早速プロジェクトの概要を説明して撮影のオファーを出したが、久しぶりに会った友人をバス停まで送る途中とのことで、後日またお話することを約して別れた。

週明けに電話をしてみるとどうにも江井さんの歯切れが悪い。どうやら私が尋ねた『誇り』があまりに抽象的すぎて、答えに窮していたようだ。そこで僕が、江井さんにとっての拠り所となることや大切なことと言葉を変えたら、「大切なものや場所や思い出は全て小高にある」とのことことだった。

江井さんの撮影場所を決めるのは難儀した。何故なら江井さんは誇りである小高への愛着が強く、警戒区域外の場所にはこれといった思い入れがほとんどないからだ。結局少しでも小高と縁のある場所ということで、小高にいた頃毎年のように遊びに来ていた北泉の浜で撮影することにした。
撮影の日は雨にもかかわらず嫌な顔を一つせず撮影に臨んでくれた。少しでも浜の雰囲気をだそうと波に近づいてもらったら背後の波が気になるようで、時折不安そうな顔を浮かべていた。
江井さんは外見は今時の若い娘だけれど、性格は素直でノンビリしているまさしく東北の「フツー」の娘。
僕はこの「フツー」で良いと思う。近年、テレビや雑誌などで個性やらオンリー・ワンやらを強調しているが、あれは特殊な業界のなかで生き残るために生まれたようなもので、日常の単調な生活、こと単調になりがちな農村部の生活には必要ないように思う。しかしその単調さが逆に醍醐味でもあり、東北の人々は昔からそんな生活の中で祭りなどの独特な文化を育んできた。
小高は野馬追祭りで有名だが、東京の人間でなくとも、東北の人間でも震災前は小高という地名を知っている人は稀であったろう。けれどそこで普通の生活を営み、脈々と文化を受け継いで、小高が誇りと答える人々がいる。小高の人にとってはそれがフツーでも、よそ者にとって独特。その土地が生まれ持った人間が宿す、受け継がれしDNA。
そんな「フツー」な生活でで十分、いやそれこそがかけがえのないものだと思うのは僕だけだろうか?


2011/08/30

狭間

津波に襲われ廃墟となった老人ホーム。
3ヶ月を経ても時は止まり、数々の痕跡が残ったままだった。
圧倒的な力で押し寄せてきた津波と片田舎で幸せな余生を送っていた老人たちを、僕は想起していた。
その狭間でふと思った。彼らは何処に行ったのだろうか。
そしてヒトはこれから何処へ行くのだろうか。



2011/08/25

遠い日の忘れもの

遠い昔の忘れものを相馬で見つけるとは思いもしなかった。

今回のプロジェクトで高校生の写真を撮りたいと漠然と思っていた。そして意中のモデルはサッカー部員だった。しかし道端でサッカー部員に会うことはなく、痺れを切らして直接コンタクトをとったのが小高工業サッカー部だった。小高工業は校舎が警戒区域内にあるため現在は相馬を中心に福島、郡山等でサテライト授業を行なっている。部員は各々の校舎に散り散りになっているが、中心校がある相馬が部員数が多く、3年生は7人いる。

僕のプロジェクトの説明をした後に撮影に応じてくれたのが3年生の齋藤一樹くん。小高区出身で小学1年生の時に兄の影響でサッカーを始めた。震災後、齋藤くん一家は父が務めている会社の本社がある長野に避難した。このまま長野に移住して親も転勤、齋藤くんも転校と決まりかけた頃、齋藤くんは、小高工業がサテライト授業を行ないサッカー部も存続可能であると知って、親に福島帰郷を願い出た。やはり2年続けた小高工業サッカー部の名を背負って試合に出たいと。 親も齋藤くんの思いを汲み取り、サテライト中心校がある相馬に引っ越した。

齋藤くんはゲームキャプテンを務めており、チームのムードメーカー。震災後、齋藤くんが中心となってバラバラになっていた部員に連絡をとって部員たちを繋げた。だが各々の家庭の事情を最優先し、福島に残るよう説得することはしなかった。それでも3年生は13人の部員が残った。
大会が始まった今は福島県内に散らばっている部員に連絡をとってチームを引っ張っている。どのようにと尋ねると、「気持ちの面で意識を高め合ってる」と。特に環境のハンデを言い訳にしたくないと皆で言い合っているという。幸い練習量は例年と同じ位こなすことができ、チーム全体の連携も先週末の試合で思った以上に取れていたという。
就職や故郷のことなど不安な面はあるが、今はサッカーのことだけに専念していると齋藤君は語ってくれた。

だがふとした瞬間、隣人の物音が筒抜けの仮設住宅で「なんで自分はここにいるのだろう?」という感覚に陥ることがあるという。
奇遇ながらこの感覚、私も高校時代に陥った。皮肉なことにその時私はサッカーの試合中に選手ベンチ裏だった。中学から本格的にサッカーを始めた私は、いつしか高校サッカーで国立競技場に行くのを夢見ていた。だが高校に上がってから怪我が続き、高1の時に膝の手術を受けた。八ヶ月かかって復帰した後も、捻挫、脱臼と冗談みたいに怪我を連発し、終いには高3に上がる直前に再び膝の大怪我に見舞われ、サッカーを断念した。そんな僕が同級生の最後の戦いを一般客としてベンチ裏から見ていた時に「なんで自分はここにいるのだろう?」と思った。
もちろん、私は家に帰ることができるし、震災で失った人もいないので、齋藤くんの思いと並列して語るのは失礼かもしれない。しかし齋藤くんも言っていたけれど、あの頃の僕にとってはサッカーが全て。それが取り上げられた喪失感はハンパではなかった。その頃の自分の姿と、小高工業サッカー部の子らの今のこの逆境の姿を重ね合わせてしまっているのかもしれない。まるで高校生の時の僕の忘れものを見たかのように。

そうした極めて個人的な思いもあり、彼らの最後の挑戦を温かく見守りたいと思っている。正直、相馬とはいえ福島県内で屋外活動することに諸手を挙げて賛成できないし、放射線量が高い郡山でわざわざ予選を開催することには納得できないでいる。でも。小高工業の名前を背負って戦う決意をし、国立を夢見るサッカー少年たちを僕は止めることはできない。サッカーができない苦しみを人一倍知っているから。

そんな齋藤くんの誇りは『仲間』。チームが揃わないとサッカーはできないし、チームメイトは練習もプライベートも常に一緒だからとのこと。この状況下で仲間とサッカーをできることの喜びを噛みしめているのは想像に難くない。実際練習を見学させてもらっていても、グランドは相馬東高校の空いた時間しか使用できないのにもかかわらず、皆明るく元気に、そしてサッカーを楽しんでやっていた。齋藤くんは『仲間』が「一生の宝ものになるっす」と言った。
練習後、そんな齋藤くんと一緒にチームキャプテンの長尾雄太くんが撮影に応じてくれた。最初はお互い照れていたが、そこは気心しれた間柄、すぐに気持ちを一つにしてカメラの前に立ってくれた。
後日プリントを見て気付いた。僕は彼らに若かりし頃の見果てぬ夢を託していたことに。勝手に夢を託されてもいい迷惑だろうが、正月の国立までとは言わないまでも一日でも長く『仲間』と共にサッカーを続けられることを祈っている。

写真:齋藤くん(右)と長尾くん(左)



2011/08/19

末路

水田の上で行き場を失った大型漁船。

まるで太平洋戦争末期に散った戦艦大和の運命のようだった。

空母を中心とした航空戦が主流になりつつあった時に、国を挙げて造られた時代遅れの巨大戦艦。

その末路は片道燃料での玉砕だった。

技術にしろ物にしろ、時代や場所に見合ったものでなければ、それはもはや無用の長物でしかない。



2011/08/15

幸せなループ

幸せな関係を、相馬の港町で見た。

その幸せな関係は相馬市のみなと保育園にて育まれている。みなと保育園は松川浦から目と鼻の先にあり、距離にすると100メートル足らず。幸いちょっとした高台にあるため保育園は津波の被害を免れた。海が近いからか懸案の放射線量も、毎日行なっている独自検査によると比較的安定している。

この保育園で働く佐藤あずみ先生は、幼い頃はみなと保育園に通っていた。家は保育園から数百メートルの場所にあり、まさに地元っ子。あずみ先生は小学校に上がってしばらくした頃には「保育士さんになりたい」と子供ながら思い描いていた。この思いは高校生なっても変わらず、高校卒業後は宮城県の短大まで自宅から通い、卒業してからはストレートでみなと保育園に戻ってきた。
保育士さんを志した理由は、あずみ先生曰く「子供が好きだから」。長年描いてきたお仕事は大変だがやりがいを感じていると言う。

実は私はこの保育園を訪れる前にあづみ先生と3回お会いしている。初めてお会いしたのは、あづみ先生が友達と仙台に車で行く際にたまたま乗り合わせた時で、あまり喋る機会もなかった。2回目は以前ブログで紹介した相馬のバー『101』にふらっと寄った時。この時あづみ先生は女友達と楽しく飲んでいて、図々しく混ざって楽しめば良いものを、シャイな僕は短い挨拶を交わした後、独りカウンターでチビチビ酒を呷っていた。3回目は僕が相馬の駅前のラーメン屋さんに行った時。あづみ先生はご家族で夕食中で、この時も短い挨拶を交わしただけだった。お会いした3回とも「こんど写真を撮らせて下さいね」と軽くはお願いしていたが、実現はしなかった。
ところがふとしたきっかけみなと保育園に行く機会ができ、そこで撮影は実現した。働いているあずみ先生はザ・保育士さんとでも言うべきか、とにかく明るく元気。それもそのはず、みなと保育園の雰囲気全体が明るく元気なのだ。子供は港町なため男の子も女の子もやんちゃ者が多く、都会の親なら吃驚するような豪快な遊びをする。撮影時も腕を掴まれるわ、気づいたら背中に子供が乗っかって来ているわ、と、何かと体力を使わせてもらった。
年間、いろいろなイベントを企画してるみなと保育園。たとえば、野馬追祭の前には、子供たちに武士の恰好をさせるミニ野馬追を企画、その際園長先生は自らダースベイダー調の武士に扮して音頭を取った。そうした園長先生のおおらかな気風がそのまま保育士さんに反映されている。

地元の明るく元気な保育園で育ち、大人になって明るく元気な保育士さんとして働き、明るく元気な子供を育てる。ありふれた話かもしれないが、人々の生活を根こそぎ奪う原発事故の後も、脈々と続いているこの幸せなループが僕には愛おしい。



2011/08/08

献身の精神


このシリーズを始めて以来、僕は看護婦さんを探していた。別に個人的な趣味ではなく、震災後、原発事故後のこの状況で病院に残っている方はさぞ誇りを持って働いているだろうと思ったからだ。だが出会いはいっこうになく半ば諦めかけていた頃、取材先の相馬の幼稚園で看護学校の学生さんが実習に来ていると聞き、早速紹介して頂いた。

実習に来ていたのは相馬看護専門学校3年生の6人だったが、4人は宮城県から通っているとのことで、残りのお2人にお話を伺う。その内のお1人が鎌田美咲さん。出身は警戒区域内の小高区で、家は津波により流されてしまい原町区で暮らしているという。私のプロジェクトの説明をした後に、「あなたの誇りは何ですか?」と尋ねると、困惑しつつも「看護師を目指していることです」と答えてくれた。さらに「失うものは何もなく、前に進むしかない」と語り、しっかりと前を見据えていた。どうせ撮影するなら制服姿でとお願いしたら、ちょうど2日後は学校で自習とのことなので、さっそくアポをとった。

当日学校に行って鎌田さんにお会して話してみると、ちょっと様子が変、と言うより声がほとんど出ない。どうやら風邪をこじらせたよう。幸い撮影は可能とのことなので撮影を済ませ、インタビューは後日することに。

後日お話を伺うと、思っていた以上にしっかり者だった。母親が介護福祉士として働いている姿を幼い頃から見ていたので、「人と関わる仕事がしたかった」からと看護師を高校2年の時に志した。震災前は、看護学校卒業後は隣町の原町の病院に勤めるつもりでいた。理由は、自分を育ててくれた大好きな地元をこれからは自分が支えたいと思っていたから。そして患者さんにとっても、地元の知っている人が看護師としていた方が安心するのではないかと、患者さんのことまでしっかり考えていた。さらに鎌田さんは働く病棟も急性期と決めている。その訳は自分が看護師として見返りを求めているのは金銭的報酬ではなく、「ありがとう」という患者さんの言葉や、患者さんの目に見える回復という心理的報酬であり、そうでないとモチベーションが保てない自分を知っているからだと言う。

これだけ自分の考えを整理できているだけで素晴らしいのに、近い将来看護師として働く覚悟もすでにできていると言う。もちろん仕事は厳しいだろうし、人と向き合う仕事は責任重大なので不安もあると言う。だが学校の授業を通して今まで色々学んだので、誠意を持って向き合えばなんとかなるに違いないと信じているそうだ。鎌田さんのお話を伺っていると、僕が鎌田さんぐらいの年の頃、何も考えていなかった自分がなんだか恥ずかしくもあり、だからこそ今の彼女のこの姿勢は立派だと素直に感心もした。

ここまでお話を伺って撮影の時に鎌田さんの様に納得がいった。制服姿になった鎌田さんはこちらがビックリするほど落ち着いた、堂々たる様だったのである。まるで現役の看護師さん、いや看護師長さんくらいの雰囲気を醸しだしていた。やはり外見は内面を映し出す鏡だなと思った。

インタビューの最後に誇りについてもう一度尋ねると、今度はキッパリと彼女は言った、「自分より他人を優先的に考える看護師を目指している自分」と。この献身の精神、今この時代でとても大事な精神な気がする。そしてこの精神を産み出す大地、文化に人々が今立ち入れないという事実が、あまりにも重い。





2011/08/05

相馬の人情

江戸っ子は「義理と人情と痩せ我慢」というが、相馬にも相馬の人情があった。

佐藤浩美さんは夫の浩治さんと相馬市で上下水道の設備会社を営んでいる。夫は生粋の相馬人だが奥さんの浩美さんは原発20キロ圏内の南相馬市小高区出身。この地域の女性はとても保守的で、「男性の一歩後ろを歩く」感じで、初対面の人ともあまり話さない。だが浩美さんはまるで異星から来たかのように初対面の僕に話しかけてくれ、自然と浩美さんへのインタビューに変わっていた。

浩美さんは相馬で旦那さんと仕事をするにあたって、相馬の独特な人間関係に馴染むのに時間がかかったという。なんでも相馬藩の城下町だった相馬市民はプライドが高く、よそ者を受け入れない気風だそうだ。仕事に関しても近隣の原町の人は相馬に支店を出すが、相馬の人はほとんど原町に支店を出さないと言う。客は取りに行くものではなく、来るものだという考えなのだという。この気風は佐藤さんの会社にもあり、「値段が高い安い言うお客さんは相手にしない。ウチはアフターケアがウリなんです」と言った。

営業先で女性であるだけで浩美さんは蔑まれ、さらに小高区出身であることが分かると下から舐めるように見られたものだと言う。東京でしばらく仕事をしたことのある浩美さんにとってこの経験には困惑したそうだ。だが浩美さんは決して諦めず、必死に相馬のコミュニティに入る努力を続けた。そして数年が経過した後、お客さんを紹介してもらったりと優しくしてもらえることも多くなり、晴れて相馬コミュニティに入れてもらえたという。人情を基にしたコミュニティ内の付き合いは煩わしい時もないわけではない。しかしそれ以上に、コミュニティ内の居心地が良く、今ではコミュニティ内の人情が彼女の誇りにすらなっている。
面白いことに、いまや相馬の人情が染み付いた浩美さんは、たまに東京の雑踏に混じると「落ち着く」と言う。曰く、「何も考えないで付いて歩けば良いから」。東京の育ちの私には東京の雑踏が息抜きとは驚愕だったが、それは古いタイプのコミュニティの本質を示唆しているような気がした。

そんな浩美さんの切実な願いは「普通の暮らしがしたい」ということ。
原発が爆発した後すぐ、佐藤夫妻は千葉県の親類の所へ身を寄せた。だが首都圏の人々が日常を日常として過ごしていることと故郷との温度差に違和感を感じ、「残っている人々が苦労しているのにこんなことをしている場合でない」とすぐに故郷に舞い戻った。
そうして今、原発事故から4ヶ月以上が経過しても未だに「普通の暮らし」は戻っていない。小高区の親類は未だに故郷に帰ることが叶わず、お客さんも完全には戻ってきていない。

写真撮影は生粋の相馬人の旦那さんと、相馬の人情に触れることがお仕事の事務所で行なった。この時代に珍しく大きなダルマさんを前にして。ダルマが8つ置いてあるのは「『七転び八起き』の精神なのだ」と笑って言った。
「『七転八倒』になりませんように」など戯れ言を言い合いながら、僕はシャッターを押した。


2011/08/01

執着

荒れ果てた北泉の浜。  
火力発電所は津波に呑まれ、地盤沈下で海も近くなった。 
霧の中にはうっすらと鉄塔の姿。 
ゾンビさながら執着している様が、利権にしがみつく人間の姿とダブって見えた。
 
 
 

2011/07/30

農の民

「さみしいな」

門馬勝彦さんはタバコをふかしながら北泉の浜を見てこう、呟いた。
地元は隣町の鹿島区だが、北泉の浜にもたまに訪れ波に乗っていた。仲間を通じて北泉の惨状を耳にしていたが、「見るのが怖」くて来れなかったという。かつてサーファーが365日集い、サーフィンの世界大会すら開催された北泉の浜の変わり様は門馬さんの予想以上だったようで、しばし浜を見て佇んでいた。

門馬さんは時間さえあれば冬でも波に乗る地元のサーファー。最後に海に入ったのも昨年末だったという。しかしサーファーは門馬さんの素顔の一面で、本業は種苗、野菜を中心とした専業農家。地元鹿島区でお兄さんと二人三脚で規模を大きくしてきた。しかし震災を機にお兄さんは山形へ避難し、現在は門馬さんが中心となって経営している。そしてお会いした時に門馬さんが力を入れていたのがゴーヤの苗。節電グッズとしてにわかに脚光を浴びたゴーヤを被災地福島から全国に届けようと、地元NPOとタッグを組んで販売していた。
そんな門馬さんの誇りは地元だ。門馬さんは鹿島区のことを話し始めるとゆっくりとだが、熱く語る。鹿島区は小さいが海あり、漁港あり、山あり、川ありと自然に恵まれ、自給自足も可能だという。門馬さんは時間があれば海でサーフィンを楽しみ、川で鮎や鮭を以前はいつも釣っていた。

そして撮影はビニールハウス内のゴーヤの苗の前で行った。ハウスの光の状態は抜群だったが、通路に立った肝心の門馬さんの表情が硬い。1ロール使っても変わらず、どうしたものかと困ってゴーヤに近づいてもらったら、急に引き締まった顔をした。やっぱり農民は土に近づいてこそなのだと思った。正直、僕は門馬さんに地元鹿島の浜での撮影をオファーしたのだが一度断られている。忙しいから時間がないとのことだったが、沢山の思いが詰まった浜に行きたくない、撮られたくないという思いがあったのだと思う。しかしハウスで撮影は結果的に正解だった。ゴーヤに近づいた後は誇り高き鹿島の農民になっており、シャッターを数回切った後に確信した、カッコイイ写真が撮れたと。

土地とそこに住む者との目には見えない断ち難い関わりを僕は目の当たりにした。


2011/07/25

夢の痕

誰もいない早朝の烏崎。

以前は沖で多くのサーファーが波を乗り、浜では相馬武士が愛馬に跨り疾駆していたという。

彼らの夢の痕を眺めていると、涙が溢れてきた。

そして陽は、また昇った。
 
 
 

2011/07/21

バカじゃないと



相馬野馬追祭りに関しては「戦国絵巻さながらの光景」とずいぶん前から耳にしていたし興味もあったが、お一人の参加者にお会いして、お祭りに参加している相馬武士の一端を見た気がした。

その方は深野利正さん。生まれも育ちも南相馬市原町の深野さんは、野馬追にはもう30年近く参加している大ベテラン。幼い頃から相馬武士が甲冑を身につけ乗馬にて市内を練り歩く姿に憧れ続け、大人になり経済的に余裕ができてから参加し始めた。
深野さん曰く、野馬追の参加者のタイプは大きく分けると「お祭りが好きなタイプ」と「馬が好きなタイプ」の2つに分かれる。前者は馬を直前に他から借り、後者は馬を一年を通じて飼うんだという。そして深野さんは正真正銘、後者。数年の間は馬を借りて参加していたが、お祭りの期間だけではなく毎日馬と関わっていたいと思い、馬を飼育するようになった。

深野さんのこのスタイルはよく分かる。僕は大学時代は休みとなると馬小屋に泊り込んでいたが、馬に乗るよりも馬を世話している方が好きだった。勿論、馬の世話は簡単ではない。どんなに遅くまで飲んでいても朝にエサをやらなければいけないし、冬の厩舎作業は寒さとの戦いだ。でも馬と触れ合っていると、不思議と作業の辛さを忘れてしまう。

今は町の外れに厩を借り、そこで2頭の馬を飼育している。朝夕にエサをやるにも放牧するにも、何をやるにもすべて深野さんがそこへ通ってやっている。原発が爆発し市民の多くが市外に逃れた際も深野さんは原町に残り、ガソリン不足の際は毎朝1時間以上歩いて通って世話をしていた。馬の飼育と甲冑などの野馬追参加の準備はお金と労力がかかるが、それでも馬を飼育し野馬追に参加するのは、ひとえに「馬が好きで、馬と接するのが好きだから。好きなものは仕方ない」とキッパリ言う。馬が好き過ぎると、「自分のご飯は食べずとも、自分の馬だけは堂々とした肉体にしておきたい」と思うのだそうだ。そして続けて言った「バカじゃないとできない」、と。

こんな深野さんは自分の馬だけではなく、他人の馬も放っておけない性格だ。3月下旬、避難指示が出ていた原発20キロ圏内の国道近くで馬が文字通り「路頭に迷っている」と聞いて居ても立ってもいられなくなり、馬運車を手配してその馬を捕獲して厩舎に連れ帰った。誰の馬か、これからどうするかのアテもないまま。結局はNPOの助力を得て県外に避難させることができたのだが、それまでの間は深野さんがボランティアで飼育していた。

恐らくこの地域の人は『ムダ』を排除するとか『楽をする』と言う現代の価値観で動いてはおらず、逆に『ムダ』と『労力』に美を見出しているように思える。でなければ馬と甲冑を自費で用意した武士が500人以上も集まらないだろう。お祭りには余剰の消費という側面もあるし、「武士は喰わねど高楊枝」とも言う。そんな『バカさ』に僕は憧憬を抱く。そして想像した。僕もこの地に生を授かり育ったら立派な『バカ』になっていたのだろうと。

今週末に開催される野馬追は規模を縮小して行われるため、残念ながら『バカ』が勢揃いとはいかなそうだ。来年こそは、見てみたい。



2011/07/18

中心

僕は自分が何かの中心にいたことなんてなければ、中心にいたいとなんて恐れ多くて考えたことすらない。中心にいる方が傲慢であろうと思っていたが、僕が出会った相馬の中心にいる人物は意外や意外、その中心にいることの責務を黙々とこなし、喜びを噛み締めていた。

震災の混乱が未だに続いていた3月下旬、僕が相馬は中村神社に初めて訪れたとき、所狭しと置かれた救援物資の隙間をぬって電話の応対、支援の指示と実行、はたまた社務を忙しなくこなしていた女性がいた。その女性とは中村神社で禰宜さんをしている田代麻紗美さんだ。

中村神社は一千余年の歴史をほこり、1611年に旧相馬藩主が小高からこの地に城を移してから現在の姿となっている。中村神社では相馬藩の神事である野馬追を代々執り行なってきた。
田代さんは震災以前は禰宜さんとして社務をこなす傍ら、地元の方々に乗馬を通じてホースセラピーを行なっていた。野馬追の行列にも幼い頃から参加し、5年前からは中村神社の禰宜さんとして参加している。
だが震災を境に状況は一変。馬の救出、飼料の配布を始め、地元の方々に救援物資を配るなどボランティア活動がメインとなった。それでも社務はあるわけで、忙しい合間を縫って祈祷やお祓いを執り行なっている。

正直、僕はボランティア活動に奔走している田代さんしか見たことがなかった。その活動自体は素晴らしいものだし、その活動をしている田代さんのお姿も輝いていたのだけれど、その姿を写真に収めようとは思えなかった。なんと言うか、田代さんの奥底に眠る神秘性のようなものが引き出せないと思ったからだ。
そんな訳で撮影をお願いすることもないまま時が徒に過ぎ去っていったが、東北地方が梅雨入りして間もないころ、祈祷が執り行なわれる日に中村神社にお邪魔した。もちろん、祈祷を捧げる田代さんは禰宜さんの出で立ち。東洋の神秘がほどばしる姿を見て思った、やはり禰宜さんは禰宜さんモードになったときに初めてその神秘性を表に出すのだな、と。境内で祈祷が終わった後に、しっかり撮影させて頂いた。

そんな田代麻紗美さんの誇りは「相馬の中心に居れること」だそうだ。野馬追や観光名所として中村神社は相馬で「シンボリックな場所」であり、その中村神社で禰宜として関われることを幸せに思うのだそうだ。田代さんは震災以前から相馬に特別な思いを感じていた。都会とは異なり相馬は海と山が近くにあり、その素晴らしい環境で生まれ育ったこともあり愛着があると言う。

その相馬の野馬追は今週末に開催される。震災と原発の影響があって例年より規模を縮小しての開催となるが、中村神社での総大将出陣式ならびに市内での行列は予定通り実施されるようだ。田代さんも禰宜さんとして参加されるとのこと。その乗馬での出で立ちにも注目したい。


2011/07/14

天職


バーテンというと落ち着いた感じで喋り淡々とお酒を作るというイメージだったが、相馬のバーテンは一味も二味も違っていた。

相馬駅近くにお店を構える『101』はコンクリート造りで入り口は2重扉となっており、高級クラブを連想させる。地方でボッったくられるのも嫌だったが、僕は勢いでドアを開けた。こじんまりとした町のバーを想像していたが、まったくの真逆。ゆったりとした店内にダーツとビリヤードが併設され、天井は高く雰囲気がとても良い。
時間が早いせいもあって人はまばらだったが、お話を伺うには絶好のタイミング。早速バーテンの方に声をかけた。その人は山岡道治さん。このお店でバーテンとして12年以上働き、5年ほど前からは店長としてお店を任されている。
僕は飲み屋と言うとチェーン店か赤提灯が主であまりバーに足を運ばないのだけれど、この人のスタイルは独特だと感じた。カウンター越しにトークをするのはバーテンとして当たり前なのだが、トークがユニークなのだ。
お客さんの話を聞くモードもあるが、だんだんエンジンがかかってくると自分でボケて勝手に盛り上がる。若いお姉さんがくるとイジって楽しむ。そして馴染みのお客さんが団体で来ると、仕事場からいつの間にやら離れ山岡さんまでパーティールームに消えてしまう。山岡さんが不在の間もオーダーは入るわけで、他のスタッフの方がマニュアルを見てお酒を作っている。それを見ていて、僕は思わずクスクス笑ってしまったものだ。このスタイルが相馬で主流だとは思えず山岡さんのオリジナルなのだろうが、不思議と店は夜になるほどお客さんで賑わい、山岡さん目当てにくる若い子も多い。
お酒を作るときは一変、阿修羅の如く手で次々とお酒を注ぎ、その速さ、丁寧さ、味は申し分がない。もちろんこの時でさえ口は動いているのだけれど。

山岡さんのお母さんは美容師さんで、その姿を見て育った山岡さんは美容師になりたいと思っていたという。しかし酒好きな山岡さんは、気づけばバーテンになっていた。山岡さん曰く、バーテンは『天職』。その心は単純明快で、「酒も呑めるし商売もできるから」。大阪商人でもないのに誇りを『商売人としての自分』と公言するのにも最初違和感があったが、その働きっぷり、飲みっぷり、喋りっぷりを見ていて納得した。

この店の賑わいは震災前と全く変わらない光景だが、影響が皆無だった訳ではない。山岡さんは津波により父親を失い、原発事故で避難もした。しかし結局また相馬に帰ってきた。
相馬の町や海には数々の思い出や愛着があり、この町を福島県浜通りの最前線として元気にしたいと思っていると言う。

僕はそんな山岡さんの姿を見て、『天職』を見つけ出しそれに生きる人は自然活き活きとするのだなと感じた。そして思った、自分はどうなんだろうと。写真が『天職』なのか未だに分からないが、5年後、10年後も僕は変わらずカメラを持っているのだと思う。



2011/07/11

新しい戦争

皐月晴れの下、南相馬市萱浜で自衛隊による行方不明者の捜索が行われていた。

宮城、岩手両県とは異なり、被曝の恐怖と隣り合わせの作業。

昼休憩の前に、隊員は順次カウンターで放射線量を計測していた。

これは新しい戦争の始まりなのだろうか。
 
 
 

2011/07/07

支え

五月晴れが広がっていた南相馬市。自転車で萱浜の部落を走っていると、ビニールハウスで作業をしている一人の男性の姿を見つけて不思議に思った。ここ萱浜は津波による被害が大きく、行方不明者の捜索も依然行われていた。加えて原発の影響があったので、この頃この地域で農作業をしている人はほとんどいなかった。いたとしても重機で田畑を耕す程度だった。
そんな状況下でのビニールハウスでの作業だ。興味津々で近寄ると、どうやらホースで水を撒いているようだ。早速お話を伺いたい旨を伝えると、水まきで手を離せないが、作業をしながらならオッケーとのこと。ビニールハウスの中へお邪魔すると、一面「何か」がニョキニョキ生えていた。見たこともない光景に、思わずお名前を伺う前に質問していた、「これ、何ですか?」と。「何だと思う?」と逆に返されたが、答えあぐねていた僕を暫く見た後、「アスパラだよ」と教えてくれた。スーパーで並んでいるのとは異なり、イカツくデップリしていて驚いた。

野菜の正体が判明した後、改めてお名前を伺った。その方は田部政治さん、萱浜で専業農家をやってる方だ。田部さんは数年前まで農家と無縁の生活を送っていた。大学を卒業後、愛知県の会社でサラリーマンをしていたのだ。ところが父親の死を契機に会社を早期退職して実家に戻り、新しい農家の礎を築くということで農業の道を志した。農業学校で1年勉強した後に夏はアスパラ、冬は自然薯の栽培を始めた。試行錯誤を繰り返しなんとか今年から黒字に転換と意気込んでいたところに見舞われた津波。家は全壊となり、9つあったビニールハウスも5つは流されてしまった。そしてその後の放射能による汚染。田部さんは一時期農家を続けることをほとんど諦めかけたが、そんな時にハウス内で見た一つの光景。なんと津波で汚泥がかぶさりひび割れた地面からアスパラがニョキっと顔を出していたのだ。そのアスパラの健気な姿を目にした田部さんは「かわいそう」に思い、「なんとかせねば」と思ったと言う。幸いアスパラの根は残っていたので「終わりじゃない」と思い直した。原発の影響で出荷することはできないが、今秋、そして来年の出荷を目指して継続を決意。以後ボランティアの力も借りて汚泥を取り除き、やっと前日から水やりを開始したと言う。

再開の目処が立ったいま、田部さんは多くの人に支えられていることを実感したと言う。汚泥の除去もボランティアの方々の力なくしてはできず、そして何より家族の支えがなかったらここまで辿り着かなかったと言う。家族に相談することなく早期退職して農家を志した時、原発が爆発して避難した時、そして避難準備地域に指定されながらも農家を続けようとした時、いつでも家族が支えてくれた。田部さんはそんな家族が誇りであると言った。

撮影の後、田部さんはおもむろにアスパラを一本差し出してくれた。一瞬放射能のことが頭をよぎったが、検査で不検知だった話を思い出した。「アスパラはあまり好きくないんだよな」と思いながら齧りつくと、意外や意外、甘く丸みを帯びた味が口の中に広がった。田部さんを支えたご家族と、アスパラを支えた田部さんの思いがこもった味を、しっかり堪能した。


2011/07/04

階段

人々の誇りを伺い魂を記録して回っているが、少なからず拒絶されることがある。

例えば隣人がまだ行方不明なのにそれどころではない、と。

僕が当人でも、同じように答えるだろう。

進んでいくプロセスには段階があるのだから。

彼らを待ち受ける道のりは険しく、孤独だと思う。

どうか一歩一歩、無理なく歩んで欲しいと願う。


2011/06/30

ふたり

震災も原発も、『ふたり』の関係を変えることはできなかった。

松本仁さんは南相馬市小高区出身。原発事故後すぐに隣町にある原町第一小学校に避難してきた。松本さん家のモモちゃんは事故後も松本さんのお父さんと小高の家に残っていたが、小高が警戒区域に指定されてお父さんが新潟に避難するのに伴い、松本さんの元へやってきた。
小高区にいた頃のモモちゃんは放し飼いをされ、自由に動き回り番犬としても活躍してい た。しかしご主人様が避難所暮らしともなると生活は一変。日中は校庭の隅に繋がれ、夜は車中泊。しかも車は地方で幅を利かせている軽自動車なので、動きの 自由度も少ない。そのため、ひとたび松本さんが姿を現すとベッタリ離れないと言う。せっかく散歩に連れて行こうとしてもお座りしているだけで動く気配を見 せないという。モモちゃんは9歳になり熟女の域に達しつつあるが、この状況下では少女に逆戻りのようだ。

では松本さんはどのように感じているかと思い、「モモちゃんがいると生活はどうですか」と私が尋ねると、「気晴らしになる」、「暇つぶしになる」と素っ気ない。だが確かにこれは的をえている。

避難所暮らしも3ヶ月と長くなると、狭い空間での日常の繰り返しでヒマとアキがやってく る。「1日3回食べさせてもらって避難所でゴロゴロしているのはけしからん」と言う人もいるが、実際にお金をあまり使うこともできずやることがないのだ。 しかも原発の収束と故郷への帰宅の見通しが全く立たない状態なので、未来へ向けてのやる気も湧いてこないのも無理はない。

普段からのモモちゃんとのベタつき具合を見ていたのでもう少し引き出そうと、「モモちゃんとは?」と尋ねると「おんな」とまたはぐらかされた。これが最後と「松本さんにとってモモちゃんとはどんな存在ですか?」と尋ねるとやっと本音が出た、「家族」と。

私もイヌを飼っていたので気持ちはよく分る。ポチ(僕の愛犬)はペットではなく家族だった。生活の一部だった。だからこそ、逝ってしまった時の喪失感はハンパではなかった。自分がいかにポチに支えてもらっていたか、ポチから色々なことをもらったか痛感した。

松本さんは避難所暮らしも長くなっている。松本さんがモモちゃんを支えている面も多々あるだろうが、逆もまた真なりだろう。

モモちゃんよ、どうか松本さんが小高に帰り、落ち着くまで傍にいてやってくれよ、と願う。



2011/06/27

継承

福島県の南相馬を中心とした相双地域の人々の魂を記録して回っているが、或る時、日本人の魂が宿っているモノがある、と言われた。そのモノは甲冑。おっしゃった人は甲冑師の阿部光男さん。甲冑師を生業としている人は全国でも5人程しかいないのだが、その1人が阿部さんだ。数人しかいないのにも関わらず、甲冑師名鑑があると言われハテナと思ったが見て納得。名鑑の中のお人は鎌倉やら安土桃山やら江戸の文字のオンパレードで、その中に昭和・平成の職人さんとして阿部さんのお名前も載っていた。この大胆な名鑑の発刊にびっくりしたことはさておき、武士の歴史はそのまま甲冑の歴史であることを目の当たりにしてひどく驚いた。

阿部さん曰く、甲冑は神秘性、機能性、美術性の3点を兼ね備えていると言う。機能性・美術性は見た目でなんとなく分かるが、神秘性だけは謎だったのでお尋ねしたところ、例えば兜の鉢の頂上部分は八幡座と呼ばれ、神が宿るものと考えられていると言う。そしてこれらの甲冑を作る技術は現代の技術をはるかに超えており、中には復元不能なものもあるという。

甲冑に関して素人だった阿部さんは、この技術を習得するのに15年以上もかかった。きっかけは野馬追祭りに出場する際に借り物ではなく自前の甲冑が欲しかったから。型取りをして自力で作ろうとしたがオモチャのような代物かできず、それがきっかけになって甲冑の修復を志した。古代の技術を習得する度にその技術を自分の甲冑に応用し、古代のモノを修復できる喜びに味をしめ、気づけば鎌倉の甲冑師の先生の元へ月に一度、15年以上も通い続けていた。

甲冑師としての魅力は古代のモノを修復する醍醐味と、オーダーメイドで製作・補修した際に型がお客さんにピッタリとハマって喜んでくれることだという。

阿部さんはそんな自身が手で覚えた技術を誇りとし、日本で生まれたこの技術を伝えたいし、ここ相馬では伝えなければならないと言う。なぜなら、甲冑師なくして甲冑の修理は不可能で、野馬追祭りが成り立たないからだ。

その技術の結晶である甲冑を眼の前にすると迫力満点で、今にも武士がこちらに立ち向かってくるかのような錯覚に陥った。まさに日本人の魂が宿っていた。武士が実際に着用していたからというのも一つの理由だろうが、昔の人が手作りで、職人としての魂を注入していたからこそ、日本人の魂が感じられるのだと一人で納得していた。

技術が日々進歩していると言われているが、それはあくまで科学技術に限っただけで、技術全体が進歩している訳ではない。それどころか原子力という人智を超えたパンドラの箱を開け、それを暴発させてしまった人々がいる。

かたや先人の技術の高さに畏敬の念を抱きつつ、古代の技術を脈々と受け継ぎ、その技術を誇りとする現代の甲冑師。

どちらの姿が正しいのかは火を見るより明らかだろう。


2011/06/23

二人のヒミツ

そのお姿を見て、僕は眼を見はった。
短いスカートを着こなし、高いブーツを履き、頭にはおリボン。昔風に言えばハイカラ、今風に言えばファンキー。その身なりで喫茶店でカフェオレを啜るオバチャンの姿を拝見したら、声を掛けずにいられなかった。

そのオバチャンは川村京子さん、南相馬市原町区出身。高校を卒業してしばらくは原町に残っていたが、24歳の時に上京。パチンコ屋を始めとして様々な職業を点々とし、40歳頃に再び原町に戻ってきた。以後は原町でアルバイトをし、今は年金暮らし。独身なので親が残した家に、今は一人で暮らしている。

喫茶店でしばらくお話を伺った後、オバチャンの誇りが姉弟と言うことで、昔生活を共にした家で撮影しようということになり、オバチャンのお宅に場を移すことに。お宅は原町駅から徒歩5分くらいの所と立地は良い。地震の影響もほとんどないそうだ。ただ室内は雑然としている。これは地震による影響ではなく、モノが単純に多いから。しかもその多くが人形・置物だ。絵、小物に始まり、ぬいぐるみ、日本・西洋人形、はたまたちびくろサンボ顔負けの黒人の置物まで多種多様だ。なんでもそれらの収集グセがあると言う。その大半はリサイクルショップで購入したと何故か誇らしげに語ってくれた。独身の寂しさを紛らわせるためモノで囲っていると読んだ僕は、オバチャンに理由を尋ねるが「好きだから」とニベもない。「頼りになるから」と4人の姉弟を誇りに挙げて近況を自慢気に語るオバチャンの姿を見ていたので僕の推察に確信をいだいていたが、オバチャンの答えは変わらず。答えは重要ではないと気付いた僕は、それ以上の問をやめた。

その後撮影に移り終盤に差し掛かった頃、僕があるお願いをした。オバチャンのとあるお姿を撮影したい、と。だがオバチャンは何度お願いしても頑なに僕のオファーを断った、名誉に関わると。それ程でもなかろうにと思ったが、それまでの撮影に十分手応えを感じていた僕は諦めた。
東京から遠い原町のオバチャンと僕の間に2人だけの秘密があるというのも、オツなものだと思う。


2011/06/20

見えない恐怖

遊ぶ子らが誰もいない小学校の砂場。
見た目は以前と何も変わらない。
だが、確実に放射能に汚染されている。
これが放射能の恐ろしさ。

枝垂れ櫻は今年も変わらず、頭を垂れて花を咲かせていた。

※原町第一小学校にて、2011年4月撮影


2011/06/16

ディープインパクト

ターフを雷光の如く駆け抜け、競馬ファンに数々の衝撃を与えた平成の名馬、ディープインパクト。その名前を堂々とラーメンに使用するのだから、大将の度胸は半端ではない。

屋内退避指示が発令されていた4月上旬の南相馬市原町区商店街にて、道端にラーメンのノボリがはためくのを見て僕は色めき立った。この頃は数件の定食屋さんとコンビニが営業を再開していたが、ラーメン屋さんが始めているのは見たことが無かった。僕は自称ラーメン好き。1日3食とはいかないまでも、1日1食だったら毎日でも食べられる。長い海外の撮影でも思い浮かべる日本食は寿司とラーメンである。ラーメンを「絶食」していた南相馬での撮影中に、そんな僕が暖簾をくぐらない訳が無い。
お店の名前は「すず」、カウンターのみの7席で、お客さんは僕1人。期待を膨らませてメニューを見やると少々落胆した、醤油、味噌、塩味が列挙してあった。これはあくまでも個人的な印象だけれども、色んな味を手広くやってるお店はイマイチな味が多い。そんな時に飛び込んできた文字、「ディープインパクト」。味の想像は全くできないが、競馬ファンのみならずともこのネーミングに、大将の意気込みを感じることができると思う。僕の中ではほぼ決定していたのだが、一応大将に尋ねる。
「ディープインパクト」って何ですか?
「辛いのが平気だったらオススメです」
辛いラーメンは好きな方なので注文をし、お客さんが僕1人なのをいいことに大将に話しかける。お名前は鈴木修一さん。10年ほどの下積みを経て、お店は昨年10月にオープンしたばかり。やっと地元の方々に「すず」を認知してもらった頃に襲ってきた地震、そして原発問題。被災後材料が手に入らずお一旦店を閉めたが、「この味を諦めずに続け、皆さんに安らいでもらいた」いと思い直し、営業を再開したと熱く語ってくれた。この大将、一目見た時にも思ったのだが、お話しをしていて確信した。ちょっと変わってる、と。ヒゲ面はどのラーメン屋でもトレードマークのようなものだが、細身なのは珍しい。取っ付きにくい風貌だが、話してみると突拍子もないことを言ってみたり、愛嬌のある笑顔を浮かべる。この大将と、狭いながらも妙に居心地が良いお店の雰囲気につられ、長居するお客さんも多いと言う。
そして肝心の「ディープインパクト」とご対面。色が辛さのせいかやや赤い。まずはスープをすする、美味い。辛さの中に様々な味が飛び交っている。そして麺は太麺でコシがあり、スープと絶妙なハーモニーを奏でている。これは「ディープインパクト」の名に恥じない衝撃、気づいたらスープまで飲み干していた。これは僕が行きつけにする程の味で、食後に「美味しいですね」と大将に声を掛けると、照れながら「ディープは5年くらい前に開発してたんですよ」と笑って答えた。
後日、再来店した時に大将の誇りを聞いてみたところ、答えは「地元」。大将にとって地元の原町は「家族に例えると母親のよう」であると言う。言い得て妙なり。そして「生まれてきてから築き上げてきた地元を守りたい」と思い、お店を再開することでその先陣を切りたかったようである。

ここまで興味深いことを語ってくれるので撮影を依頼したところ、快諾してくれた。大将の誇りである「地元」を守るお店を背景に撮ろうということになり、お店の前に立ってもらうと、、、、決戦前のような形相で僕に向かってきた。シャッターを切りながら可笑しくもあったが、十二分に大将の思いが伝わってきた。

味も大将も、ディープインパクトだった。


2011/06/13

我が人生に悔いなし

震災直後、まだ僕が東京で何をすべきか悶々としていた頃、早くから救援活動を組織した人がいた。そしてその人達が僕に「近い人」だったのが嬉しかった。

その人は大土`雅宏(おおどまさひろ)さん。南相馬市鹿島区出身で自身も被災者。震災以前は相馬で服屋や、仙台でヒップホップアーティストのマネージャーをしており、震災当日は青森で物産展の手伝いに行っていたため、直接の被災は免れた。停電の最中携帯で集められる限りの情報を集め、自分が何をすべきかを考えた。そこで「ヒップホップは自分たちだけのものではない」と思い直し、救援活動に奔走することを決意。BOND & JUSTICE(絆と正義)という団体を結成し、今までの人脈を最大限に駆使してネットワークを構築、被災地に救援物資を運び込んだ。震災直後原発の影響で陸の孤島となっていた南相馬にも市長に直接掛けあって、一週間以内には物資を送り届けていた。以後も福島のみならず宮城・岩手の被災地にも物資を送り届け、その量は4月上旬までに100トンにも上る。

僕は大土`さんの活動を早い段階からツイッターで知っていた。自分もヒップホップが好きで、普通に歩いていてもお巡りさんに呼び止められてご質問を受けるので、大土`さんがヒップホップ周辺の人を集め、自分ができない被災地の救援をやっているのがなんだか嬉しく思ったのを覚えている。しかも大土`さんが僕の仲間の知人であったので、これはもう写真を撮らせてもらわない訳にはいかないと思い、オファーを出した。

僕が初めて大土`さんにお会いしたのは、大土`さんが南相馬市役所に罹災証明書を取りにきた4月下旬のこと。多くの人が出入りする中、一目見て同じ匂いを感じ取り気がついた。イカツイ人を想像していたけれど、意外と大人びた感じの人だった。話しぶりも理路整然としており、自分のこと、活動のこと、地元のこと、原発のことを分かりやすく話してくれた。
しかし普段の大土`さんは違う。どちらかと言えば、と言うか完全におちゃらけている人、良い意味で。色んなことを笑いに転換して周囲を和ませ、自分も楽しんでいる。この爆発的な笑いのエネルギーと鬱積した憂いが同居しているからこそ、過酷な被災地での活動を可能にしているのだろう。

そんな大土`さんの誇りは「自分の生き方」。ポリシーしかり、人間関係しかり、経験しかり、自分が歩んできた生き方がこの活動をさせている。BOND & JUSTICE の活動は「自分というフィルターを通して表現」できているし、偽善からではなく自然に始めたものと言う。

この「生き方」を象徴する写真として、各地を走り回ったBOND & JUSTICE号の前でお仲間と共に大土`さんを撮影させていただいた。撮影の初めはお二方とも真面目に立っていたが長続きするはずもなく、しっかりおちゃらけてくれた。写真の手前が大土`さんで奥がRYOさん。

BOND & JUSTICE のHPはこちら → 東北関東大震災支援隊本部 BOND & JUSTICE


2011/06/09

海とは

「あれはさすがにブルった。」
10メートルほどの大津波に向かって船を出して挑んだ時の山岡宏直さんの感想である。

私が山岡さんに初めてお会いしたのは撮影の前夜。相馬のお店で独りカウンターで待っていたところ、ひと際デカイ2人組の姿を目にし「来たな」と確信した。長年の船上の風格が滲み出ていた。連れの方は従兄弟でこれまた漁師の方。その日は金曜の晩、どうやらすでに一杯引っかけて来たらしく、山岡さんは最近始めた相馬の火力発電所での仕事で腕がアザだらけだと上機嫌で言った。なんでも船上と同じ感覚で動くと狭くて腕をぶつけるらしい。
山岡さんは相馬は原釜の船方。代々漁師の家に育ったが、二十歳くらいまでは漁師とは無縁の生活で、本人曰く「遊んでいた」。彼の風貌を見て相当派手に遊んだのだろうと推察しながら、あえてそれ以上は聞かなかった。が、結婚をしてブラブラしていたところを親父さんが船に乗ることを誘ってくれ、以来常に2人で沖に出て漁をしてきた。

洋上での漁の様子を伺うと、瞳を輝かせながら漁の醍醐味を語ってくれた。狭い漁場での漁師仲間との競争、大漁の際の満足感、洋上で食する魚の味、そして借金すら財産と言ってのける漁師の世界。まるで漁を為すことを奪われているストレスを一気に吐き出しているかのようだった。

実は山岡さんの親父さんは津波により未だに行方不明だ。地震直後に連絡をとって船での待ち合わせを約し、迫り来る津波に怯えながら待っていた。だがいつまでたっても親父さんは姿を見せなかった。ギリギリまで親父さんを待っていたが、手遅れになると仲間の漁師たちに諭され、山岡さんはやむなく彼らとともに沖に向かって船を出した。一人で船を出すのがその時初めてだったら、一人でハンドルを握るのも初めてだった。その初めてが、よりによって迫り来る津波に向かっての航海。モニターで10メートル程の津波と確認しつつ、親父さんがいつも握っていたハンドルにしがみついて大波を乗り越えた。一晩不安な夜を船上で過ごし原釜港に戻ると、そこには変わり果てた港の姿があった。沖に船を出した半数ほどの船は津波に呑まれて戻って来なかった。そして、親父さんは行方不明となった。

山岡さんは「もう少し親父さんを待っていたら」とよく自責の念に駆られるという。家族や仲間は山岡さんをなだめるが、今なお自身がとった行動に疑問を抱いている。

ふと「お父さんを奪った海は憎いですか?」と私が尋ねたところ、答えは否。「では山岡さんにとって海とは何ですか?」と尋ねると、困惑の表情を浮かべ、少し間を置いた後に「仕事場」と短く答えてくれた。海の酸いも甘いも知り尽くした上で漁を続ける者にとって、海とはまさに「自然」な存在なのだろう、訊いた僕が愚かだった。

山岡さんの荒々しくも純粋な姿を見てふと、船方に憧れていた自分を思い出した。仲間と共に荒海をくぐり抜け、一攫千金を手にする。漫画『ワンピース』さながらの世界。
出漁のメドは原発の影響で全く立っていないが、山岡さんは相馬を離れるつもりも、船方として沖に出ることを諦めるつもりも毛頭ない。何年かかるか分からない中でのその信念に、山岡さんの漁師としての誇りを見た気がする。

再出漁の際は是非同行させて下さいとお願いしてある。感動的な再出発の撮影もさることながら、獲れたての魚を船上で食したいという邪念を抱いている自分もいる。その時はせめて、撮影が一段落してから味わうことにしよう。

2011/06/06

呼び声

2ヶ月以上を経ても、墓石は津波で流されたままだった。

生活再建の優先に加えて、津波再来や放射能を案じて、みな手をつけられないでいる。

血縁が濃いこの地域の人々にとって、先祖のお墓を放置する無念はひとしおだろう。

荒涼とした大地で、墓石が夕日を浴びて光輝いていた。

まるで、そこに在ることを呼びかけているかの如く。


2011/06/02

若さの秘訣

お年を伺って驚いた、67歳。その若さの源は馬力ならぬ牛力だと言う。

南相馬市原町区の中心から自転車で15分ほど北西に進むと、民家もまばらになり山も近づき深野地区に入る。そして山へ分け入る急坂の小道を、勢いをつけて駆け上がると風景は一変し、そこには山間の牧草地帯が広がっている。この牧草地帯の一番奥にある牛舎で、門馬敬典さんは100頭以上の肉 牛を飼育しながら生活している。

門馬さんはこの道40年以上のベテランの牛飼いさんだが、家は代々競走馬の育成をしていた。門馬さんもその家業を引き継いだが、ハイリスク・ハイ リターンの不安定な仕事に嫌気がさし、一発奮起して定期的に収入が入る肉牛の飼育を始めた。以来規模を徐々に大きくし、奥さん、娘夫婦の4人で順調に飼育していた。その時に襲ってきた今回の大震災。幸い地震による被害は殆ど無かったが、その後に続いた原発事故の影響で、幼い子どもをもつ 娘夫婦は山形に避難を余儀なくされた。
原発事故後、門馬さんは奥さんと話し合い「最初から避難しないと腹を括って」いた。どんなに餌をやって避難したとしても牛は餌を分けて食べることなどせず、すぐに餌は底を尽きてしまう。門馬さんは牛飼いとして、そんな牛たちを残して避難することなどできなかったという。
2人で残った門馬さん夫婦は、震災以前は4人でやっていた作業を老夫婦でこなさなければならなくなったが、この状況になって門馬さんは気付いた。自分が牛を支えているのではなく、牛に支えられているのだ、と。門馬さんは言う、「大震災で牛がいなくなってしまったら生きる力が無くなってしまう」と。「年をとっても牛扱いをやってられるからなんとか気力が湧く」のだそうだ。そんな門馬さんの誇りは、もちろん牛。

ふと気になって門馬さんの牛のセールスポイントを尋ねてみた。答えに窮している門馬さんを見て愚問だったと思い始めたが、ふと「事故が少ないことかな」と答えてくれた。早期発見・早期治療をモットーとし、事故が少ないのがウリだと言う。「なんだ、あるじゃないですか」とよほどツッコミを入 れようかと思ったけれど、牛を日々観察して状態を確認したり、愛情を持って接したりというのは門馬さんにとっては牛飼いとして当然のことなのだと察し、軽率なことを言わなくて良かったと安堵した。

お話も終わり、お忙しいとこ長々とすみませんと私が言うと、「アッハッハー、バリバリ仕事やってたら体なくなっちめーよ」と豪快に返された。

牛力を漲らせた門馬さんから、若さの秘訣を垣間見た気がした。


2011/05/30

不惑のひと

萱浜(かいはま)は南相馬市原町区の海沿いの部落で被災以前は緑豊かな部落だったが、津波によってほぼ全てが呑み込まれ景色が一変。何もかもが無くなってしまった。

この部落で大規模農業を営んでいた八津尾初夫さんも例にもれず家の他、ビニールハウスの全てを失い丹精込めた農地も荒れ果てた姿に変わってしまった。
しかし原発騒動が未だ収まらない中、八津尾さんは早くも農業の復興に取り組んでいる。4月には畑の塩害調査としてジャガイモと大根を植え、近いうちには水田の塩害調査として田植えをする予定である。
そんな八津尾さんの描く未来の萱浜の村は、生産・加工・販売を一手に担う経営的農業を確立して若者でも農業で暮らせるようにし、緑豊かな土地で子供たちが育つ村である。また海沿いにレストラン建て、海と松林を眺めながら地元で育った作物を提供する案に想いを馳せる。

順調に復興に邁進しているように見える八津尾さんだが、実は津波により最愛の妻、一子さんを失っている。初夫さんと一子さんは結婚以来、常に新しい農業について話し合い、経営的農業の確立を目指して共に歩んできた。何事にも情熱を傾けていた一子さんの想いを実現させるため、一子さんを失ってもなお、八津尾さんは前に進むことを決意した。

今回の被災で八津尾さんがつくづく感じたことは、地域の和の重みだと言う。被災以前は新年会や花見など何かにつけて地域の方々と行動を共にしていたが、被災して声を掛け合ったり協力してくれるのもまた彼らだった。そんな地域の和が八津尾さんの誇りであり、将来は被災以前よりも素晴らしい萱浜の村を作り上げ、そこで子供たちが育って欲しいと願っている。

ここまでお話を伺って、私は自分の眼が節穴だったことに気付いた。私は淡々と、しかし誠実に対応してくださる八津尾さんを純粋な方だと思っていた。しかし、それは良い意味で違った。ただ単に純粋なだけでなく、悲しみ全てを受け入れた上で、それでも惑うことなく静かに、しかし力強く前に向かっていたのだ。まさに不惑の姿とでも言うべきか。
八津尾さんの当面の目標は萱浜の地を向日葵の花で埋め尽くすことだそうだ。なんでも作付け面積一位は北海道のとある町の21.5ヘクタールなので、まずはそれ以上にしたいとのこと。今夏一面に咲き誇る向日葵を見るのを私は今から楽しみにしている。でも、表面の美しさにだけ惑わされて本質を見落とすことだけはしないよう、気をつけていこうと思う。


2011/05/25

馬と共に、

一人の女性に馬への愛情も写真の経験も圧倒され、逆に心地良かった。

その人はNPO法人「馬とあゆむSOMA」でボランティアをしている中野美夏さん。このNPO法人は震災以前、相馬市を中心に障がい者のためのホスセラピーを行なっていたが、被災後の今、被災馬の救出、保護に奔走している。

出身も育ちも川崎市。しかし父親が川崎競馬の元騎手・調教師だった関係で幼い頃から日常的に馬と接していた中野さんにとって、馬は「家族であり、師匠でもある」と言う。父の実家が南相馬市鹿島区だったため、相馬野馬追祭の際はほぼ毎年帰省し、18歳までは馬に乗って行列にも参加していたという。中野さんは父の死後の3年ほど前、鹿島区に家族と共に移り住むことを決意。馬場も併設された海沿いの新築の家に2頭の馬を飼育して暮らしていた。そこに襲ってきた今回の津波。被災して家も愛馬も失ってもなお、「馬がいるから頑張ろう」と思え、生き残った馬の世話を続けている。
実は私は子供の時から馬を見るのが好きで、中学の卒業文集では将来の夢を「馬の牧場経営」と記し、大学時代は休みの度に馬小屋に籠っては馬の世話をしホースラバーを自称していたが、中野さんの馬への想いにはとうてい及ばず、勝手に負けを痛感していた。

二度目にお話をした時、密かにリベンジを窺っていた。そこで話がちょうど写真の方へと流れていった。聞けば中野さんは幼い頃からカメラを持ち歩いて写真を撮っていたという。野馬追や馬の写真も撮っていたが、カメラの機能には無頓着でオートモードで撮っていたようだ。名誉挽回のチャンスと勇み、写真家として活動していることをいいことに、「今度教えましょうか?」などと軽口を叩いてしまった。謙虚な中野さんはやさしく笑って受け流されたが、馬を撮った写真が何枚か残っているということで早速見せてもらうと、ポストカードにされた写真が眩く輝いていた。朝日を背景に浜を走る馬を撮影した写真なのだけれど、馬を愛し、地元の波と光を熟知し、長年の写真の経験が滲み出た傑作だった。ここに至り、馬を撮ることに関しては経験も圧倒されたと認めざるを得ず、まさに完膚なきまでに叩きのまされ気分だった。しかし不思議と、それは心地良かった。

馬と生き、生かされ、馬に教え、学んできた中野さんの人生。これからも中野さんは誇りとする馬と共に歩んで行くのだろう。
私はと言えば。とりあえず馬の写真を撮っていると気軽に口外するのはやめにしようと思う。少なくとも馬関係者の前では。


★中野さんの馬の写真はこちら→「馬とあゆむSOMAのブログ」


2011/05/23

根を、張る

根を浮かせつつも、大地にしがみつく一本の木。
幹の隣には、一輪の水仙の花。
枝に目を移せば、人知れず芽葺いていた。
そこにあるのは、根を張るものが持っている底知れぬ力。
ふと思う、この地に根付いた文化はどうだろうかと。
これからもこの大地で根を伸ばし、華咲かせられるのだろうか。


2011/05/20

見返りは、求めない

屋内退避指示が解除されても、依然多くの避難者が身を寄せあっていた南相馬市の原町第一小学校。この小学校の入口でバイク好きでもない私が、バイクを見て目を見張った。しかもカブに。

そのバイクはホンダのスーパーカブ50。新聞配達で大活躍している、アレだ。燃費が良く、故障も少ないので、発展途上国でも重宝されている。
そのカブをさり気なく大改造したのが時田昌夫さんだ。この「さり気なく」がポイントで、これはあくまでも個人的な感想だけれども、バイクを改造すると大抵が「品」がなくなる。けど、時田さんは塗装だけに30万、その他を含めると総額40万ほどの大改造をしても見かけは少ししか変わっておらず、シュールさすら醸し出す傑作となっている。時田さんはこのカブを「恋人のようなもの」と言って憚らない。

カブを愛する時田さんは、人の頼みをNOと言えない人情も持ち合わせている。時田さんは原発20キロ圏内の南相馬市小高区出身で、原発が爆発した3月13日に原町区に避難したが、この避難先でこれから遠方に避難する知人3人から小高区内のイヌ・ネコ計25匹の餌やりを頼まれた、危険を承知で17日に小高区に舞い戻った。
戻った小高区では電気が辛うじて来ていただけで、水道・ガスは止まっていた。そこで時田さんは愛車のカブを走らせ、水は山で井戸水を汲んで確保し、食料は隣町の原町区まで買い出しに行き、主にカップラーメンで食いつないだ。この頃時田さんは原発の恐怖に怯え、行政からは見捨てられ、警察・自衛隊からは逃げるように暮らし、四面楚歌状態だった。
だがこの生活も長くは続かず、20キロ圏内が警戒区域に指定された4月22日に終わりを迎えてしまい、荷物をまとめて愛車のカブで原町区へと避難した。

彼の行動は、端から見ると少々愚直だったかもしれない。だが、見返りを求めず為した彼の行動に、私は美しさすら感じる。ちょうど、時田さんが愛車のカブを愛し、このカブで近くの峠や海岸沿いを走って楽しんでいたように。だが今やその峠は放射能で汚染されて立ち入ることはできず、海岸沿いは津波によって景色が完全に変わってしまった。
時田さんが誇りとするカブで、愛して止まない故郷を元の姿で走ることのできる日は来るのだろうか?


2011/05/18

辿り着いた「場所」

ゴールデンウィークに入り全国各地からボランティアが南相馬市に集い始めていた或る日、私は午前中に2つの撮影を済ませ、昼食と一服のコーヒーを頂きに南相馬市原町駅近くの珈琲屋さんに立ち寄った。入ってすぐ、カウンターに独り座る男性が目に飛び込んできた。私はシュールな雰囲気に息をのみ、声をかけるのを躊躇ってテーブル席に腰を下ろした。

その男性がおかわりをマスターに頼む声が聞こえた。見ればお湯割りを呑んでいるようだ。大荷物を背負ってゴソゴソしていた私は独り酒の恰好の標的だったのだろう、早速その男性が
「ボランティアさん?」
と声をかけてくださった。
「いえ、東京から来た写真家です」
そう答え、続けて私のプロジェクトを説明し、お話を伺った。お名前は川田雅信さん、60歳。聞けば、川田さんは日本各地の原発の労働に30年以上も従事していたと言う。原町で原発労働者にお会いできるとは思っていなかった私は小躍りしたが、このまま話を続けるには困ったことがあった。まだ昼過ぎだというのに川田さんはすでに酔っておられたのだ。私が話の真偽を訝っていると、こちらの空気を察した川田さんは原発手帳を見せてくれた。事実を確認した私は、そのまま話を続けてもらった。
原町は奥さんの故郷であり生活の拠点としていたこと、その奥さんを3年前に亡くしたこと、もう今は原発労働に従事していないこと、長年の原発労働で慢性的な倦怠感に悩み薬を毎日服用していること。
今は市役所で、震災後に欠配となっている各社の新聞を毎朝配るボランティア活動をしていると言う。なんでも、市役所前には被災状況や原発の状況に憂慮している大勢の市民が朝の3時前から並び混乱するので、列の整理と、ゴミ拾いをしているのだそうだ。理由は「他に出来る人がいない」ので。
そして川田さんの「誇り」をお尋ねすると、今やっているボランティア活動だという。
私は少し不審に思った。ついこの間始めたボランティアが誇りなのか、と。私は繰り返し尋ねたが、答えは同様だった。
堂々巡りになっていったので、翌朝市役所前でお会いすることを約束して私は珈琲屋を出た。

果たして翌朝6時前に市役所に行くと、そこには川田さんが誇らしげに活動している姿があった。前日にお会いした際の酔っている姿からは打って変わって、テキパキと動き、「ありがとう」と声をかけられると笑顔で応えていた。
この姿を見て私は思った。原発での仕事とは異なり、人と触れ合い、人から「ありがとう」言われるのが川田さんは嬉しいのではないか、と。奥さんを亡くした今、この「場所」こそ彼が寂しさを紛らわすことができ、胸を張って働ける場所なのではないか、と。私の言葉に、川田さんは直截には返事をしない。ただ、「そうかもね」とポツリと答えるだけだった。

南相馬市の屋内退避指示が解除されたのを受け、市役所 前の各社の新聞配りは予定ではもう終わっているはずだ。彼がまた、彼の「場所」に辿り着けることを、切に願う。


2011/05/16

もらった命

命は与えたり、もらったりするものではないが、弱冠20歳の青年は『もらった命』と臆することなく言ってのけた。

津波が全てを呑み尽くし、その後に残った瓦礫も自衛隊によって片付けられた4月下旬の南相馬市原町区渋佐。私はここで荒くんと出会った。彼を一目見て、彼の大きな体躯から溢れる愛くるしい笑顔と、奥底に潜む強い意志に惹かれた。
小さい頃から機械を触るのが好きだった荒くんは、地元の高校を卒業後に就職し、自宅のある渋佐から通って勤めている。この日は仕事がお休みで、近所付き合いがあるお宅の家の片付けを手伝っていた。
彼の手が空いた頃合いを見計らって早速、撮影を申し入れたところ快諾してくれた。一通りお話を伺った後、撮影を兼ねて地元の被災地を案内してもらうと、彼の地元愛が堰を切ったように流れ出し、多くの思い出を語ってくれた。
「この季節になると村は田植えとその準備で大忙しだった」、「村人のほとんどが顔見知りで、年長者にかわいがってもらった」、「この地元を離れるつもりは全くない」、等々、もうこれでもかという位に地元愛のオンパレードだった。
そして彼の誇りは当然、地元。彼の夢は自分を育ててもらった渋佐を「20年、30年かかるか分からないが、元通りにすること」だそうだ。
彼が愛してやまない地元での撮影中、突然分厚い雲間から光が降り注いできた。光をバックにした荒くんは、まるで地上に舞い降りてきた救世主のように見えた。

帰る道すがら、逞しく生きる雑草を見て彼は独りごちた。
「草は強ぇーなぁ」
続けて言った。
「自分の命は亡くなった人々からもらった命。代わりに生きて行くつもり」と。
彼が背負ったものの大きさを危惧したが、彼ならやってのけると信じ、私は彼に別れを告げた。

2011/05/14

巡りめく

時は平等に刻まれ、季節は移ろう。
咲く花あれば、散る花もある。
逝く者もいれば、生を授かる者もいる。
巡りめく、この世界。

2011/05/11

サナギから蝶へ

子供でも逆境を糧にして成長するんだなと、まるで我が子のように感心した。

南相馬市の原町第一小学校は避難所となっており、震災から1ヶ月近く過ぎた4月上旬になっても市内外から100人以上の避難者が身を寄せ合って暮らしていた。この頃になると避難者たちは、家に戻れないことや家族を失った現実と向き合いつつ途方に暮れていた。加えてこの小学校は屋内退避指示圏内であっため、 避難所となっていた体育館の窓は終日閉め切られており、重苦しい雰囲気が漂っていた。

しかしこの体育館の空気を一人、颯爽と切り裂く者がいた。ななちゃん、4才だ。ななちゃんは体育館の中を歩き回っては誰彼構わず喋り、生活空間を仕切る段ボールの「壁」をものともせず遊んでもらっていた。ななちゃんが「遊んでもらっていた」と言うより、避難者が 「遊んでもらっていた」と言う方が正しいかもしれない。実際、ななちゃんと接して避難者は「元気をもらった」、「ななちゃんがいて良かった」 等々と言っている。私もななちゃんに「おにいちゃん」として遊んでもらって、一日の疲れを癒してもらった身である。

避難所の多くの人から愛されていたななちゃん。しかし母の柴口明美さんによると、被災以前は内気な子で人見知りも激しかったそうである。それが震災後、原発20キロ圏内の南相馬市小高区に住んでいた柴口さん一家は避難を余儀なくされた。ななちゃんはそうやって避難所を点々とする間に、自分なりに考えて行動するようになっていたのではないか。母親の明美さんはななちゃんの変化をそう捉えている。そんな、サナギから蝶に脱皮したかのように成長した娘さん、ななちゃんが、明美さんの誇りである。

私は「おにいちゃん」として、ななちゃんの今後の更なる成長を楽しみにしている。が、先日電話でななちゃんと喋った時に、「おにいちゃんだよ~」と声をかけたら、「どのおにいちゃん?」と返されてしまった。
さすが、人気者。

2011/05/10

想いやる気持ち

黙々と作業する団員らの姿を見て、「彼らを駆り立てるものは何であろうか」と想った。

4月中旬、南相馬市原町区の消防団が海岸近辺で依然、行方不明者の捜索をしていた。この頃は30キロ圏内が屋内退避指示地域だったため、自衛隊は勿論のこと、警察による捜索すら行なわれておらず、消防団がボランティアとして活動を行なっていた。
ボランティアと言うと聞こえは、良い。だが活動内容は行方不明者の捜索、そして行方不明者の多くは遺体となって発見されることが多いのだ。ましてや放射能という目に見えない危機と隣り合わせの地域である。多くの団員は平時には別な仕事をしているため、彼らの精神的負担は想像以上であろう。

そんな彼らの活動を目の当たりにした時、私は迷わず彼らの元へ歩み寄り、分団長の大川博さんにお話を伺った。大川さんは原町区在住で、地震・津波の大規模な被害は免れ、震災直後からほぼ無休で活動に参加している。仲間の団員の中には、家族を避難先に置いて自身だけ原町区に戻り、活動に参加している者もいるという。大川さんは、自分にとって、この活動とこの活動に参加している団員が誇りである、と言い切った。そして消防団の活動に加わっている理由をお伺いすると、家族の元に遺体を一日も早く戻してやりたいという、遺された家族を「想いやる気持ち」からだと言う。

これを聞いて私は、はっとした。「想いやりの気持ち」とはとても日本人的な精神性だと私は思う。私は自身の想像力の甘さを自戒すると同時に、この時一つのことを思った。彼らが今後直面するであろう精神的苦痛を。
願わくば、無理をすることだけは避けて欲しい。

2011/05/06

街角の光

真昼間にもかかわらず、そのお店は輝きを放っているように見えた。

4月上旬の南相馬市原町区。その頃原町区は原発事故によって屋内退避区域に指定され、区内の人口は激減していた。市民は放射能の見えない恐怖と不安に怯え、多くのスーパー、コンビニは閉まり、その他の店もほとんど休業していた。

そんな状況の中、町外れに悠然と開店している店があった。店の名は『食事処いずみ』。店主の大戸直正さんは、奥さんと共に店を切り盛りしている。私は正直、この地域を覆っていた不穏な雰囲気に疲れ、ましてや定食屋さんでゆっくりご飯をありつけることなど諦めていたので、この店が「街角の光」に見えた。

お店は地震による被害が少なく翌日から開店したが、原発事故後に仕入れが困難になり、大戸さんは不本意ながらも山形へ避難した。しかし、町の活気を取り戻すためには、外からの声援だけでなく地元から発信する必要性を痛感したという。そうして南相馬へ戻り3月の最終週に営業を再開した。

いまだ食材の調達が困難な状況ではあるが、職人気質の大戸さんは以前と変わらず、お客さんに美味しいもの提供し、また来店してもらえるようにと、調理に励んでいる。

大戸さんにとって誇りであるこのお店は、私にとってそうであったように、地元の人々にとって「街角の光」となっているだろう。


2011/05/04

悲鳴

すべてを飲み尽くした津波。

先人たちが開拓した水田も容赦なく飲み込まれた。

水が引いたあと、田んぼが塩害でひび割れていた。

まるで、悲鳴をあげているかのように。
 
 
 

2011/05/02

もののふの魂

今の時代、「サムライ」だの、「もののふ(武士)」だのと言っているのを聞くと仰々しく思えてしまうものである。しかしお会いして思った、この人は筋金入りだ、と。

西護さんは南相馬市原町区石神に住む野馬追のメンバー。15歳の初陣から数え、昨年までで62年間連続で出陣している。

野馬追とは一千余年の歴史がある旧相馬藩領の神事・祭りで、甲冑行列や神旗争奪戦などが執り行われる。西さんにとって野馬追とは「相馬藩の歴史」であり、「伝統文化」であり、「サムライとしてそれらを守るために血が騒ぐ」のだと言う。

普段の西さんは小柄で、柔和な顔をして喋るおじいちゃん。震災後も20キロ圏内も含め、仲間と共にこの地域に残された馬の救出に奔走した。これも「武士の情」か。しかし馬と接する際は顔が引き締まり、武士の威厳を感じさせる。

今年は野馬追の開催は危ぶまれているが、西さんに宿り、西さんが誇りとする「もののふの魂」は、一生揺らぐことは、ない。





2011/04/29

逆境にあっても謙虚で素直な心を持ち合わせる姿

大津波が全てを飲み尽くし、見渡す限り「何もない」風景をずいぶん彷徨った後、津波到達最深部の部落、渋佐に入った。ほとんどの家は後片もないか面影を多少留めている程度で、壊滅的な被害を受けていた。

その中でただ一軒、構えをしっかり残している家があり、そこで片付けをしている数人を見かけた。
何か気になってその中の一人に声をかけた。
話を聞けば、岡田順子さんは、避難先の仙台から被災後二週間で南相馬に戻り、現在は親戚の家に身を寄せながら毎日ここに片付けに通ってると言う。家は腰の高さまで浸水したため、汚泥の除去と家の中に散乱した荷物出しが最優先の作業となっていた。
岡田さんは最初に家を見た時、申し訳ないと思ったと言う。何故なら。
「近所で家を失った人に申し訳なくて」
と。
しかし岡田さんは、近所の人々の次のような声を聞いて嬉しく思ったと言う。
「気にするな。一緒に頑張ろう。また一緒にみんなで住もう」。
そしてまた岡田さんは、手伝いをしに駆けつけてくれた親戚が、中には遠く神奈川県の横須賀からもいたことにも嬉々としていた。
そんな岡田さんの誇りは「人の温かさや絆」である。

それを聞いて、私が声をかける前に気になった理由が分かった。岡田さんが片付けていた姿に、古き良き日本人の姿を見たからだ。その姿とは、逆境にあっても謙虚で素直な心を持ち合わせる姿である。

今日の一枚はそんな彼女を真ん中に、彼女の家族・親戚とで片付け後に撮った家の前での写真。

2011/04/27

牛飼いとしての誇り

被災の生々しさを伝える崩れかけの土蔵の牛舎を横目に、南相馬原町区馬場の牛飼い、瀧澤さん宅のインターホンを押し、来訪を告げる。出迎えてくれたのは、今は息子さんに経営を任せている徳雄さん、70才。薪ストーブがある客間に通してもらってお話を伺うが、長年絶え間なく続けてきた重労働を物語る厳つい表情と、高齢者特有の激しい訛りのせいで多少尻込みしてしまう。現地で知り合った人を交えて何とか会話を続ける中、放射能の影響で搾った原乳は全て廃棄していることを知らされる。
牛舎に案内してもらうと一転、瀧澤さんが持つ柔の面が浮かび上がってきた。50頭弱いる乳牛を見遣る眼差しは優しく、口調もどこと無く柔らかくなった気がした。そして愛牛を撫でながら言った。
「ベコ(牛)は家族の一員。人間のために尽くしてくれたベコを見殺しにはできねぇ」
そう、瀧澤さんの牛舎は原発から30km圏内の緊急時避難準備区域に入っているため、いつ避難指示が出されるやもしれないのである。
そこで私は先程、瀧澤さんと交わした会話を思い出した。
「父の代より一頭の牛から規模を大きくしていったからこそ、牛飼いとしての誇りがある。」
地震も原発も、この人の信念を変えることはできないのだと感嘆し、瀧澤さんに礼を言って牛舎を辞した。



2011/04/25

「わたしの誇り」

「あなたの誇りとは何ですか?」

私はいま、被災者にこのように尋ねまわって撮影している。

東北沿岸部を襲った巨大地震・津波の被害をメディアを通じて見て、私は写真家として何ができるか、日本人として何ができるかを己に問い続けた。しかし圧倒的な被害を前に答えを見出せず、悶々とした日々をいたずらに過ごしていた。

答えを出せずとも独り、東北の過去・現在・未来に思いを巡らせていた。
辺境としての東北。米の供給地としての、労働力の供給地としての、ひいては電力の供給地としての東北。中央から搾取され続け、壊滅的被害を被った後もまた、同様の構図の復興が叫ばれている東北。

そんなある日、テレビから私の眼に一つの映像が飛び込んできた。

『東北人魂』

サッカーのチャリティーマッチでの入場の際に被災地である大船渡市出身の小笠原満男選手がT-シャツに刻み込んでいた言葉である。彼の無言でありつつも気高いその佇まいを見て、私が抱いていた東北人の姿と重なった。
東北人の姿。それは苦難に耐え忍び、黙々と日々の営みを続ける姿。

壊滅的な被害を受けてなお、屈することなく復興という出口が見えない戦いに無言で挑んでいくその魂を記録することが、私が写真家としてできる唯一のことだと思い、このプロジェクトを始めることにした。
そして私は相馬・南相馬両市に向かった。この地域は旧相馬藩領で、野馬追祭りを通じて市を越えて伝統や風習が人々に色濃く受け継がれ、土地に根付いている。加えてこの地域は原発事故を受けて警戒区域、緊急時避難準備区域、計画的避難地域、そして区域外と分断されている。
彼らが長きにわたって紡いできた伝統や風習が危機に瀕している今こそ、彼ら、彼女らの無言の声に耳を傾け、記録したいと、記録するべきだと思った。

被災者が抱える闇は私の想像を絶するものだと思う。
願わくば、深い暗闇に迷い込んだ際に、被災してもなお誇り高く屹立している写真の中の己の姿を見て、東北の大地に生き、生かされてきた自分を思い返してもらい、一筋の光としてもらえたらと思う。
そしてより多くの人々に、彼ら、彼女らの姿に思いを巡らせてもらえたら幸せに思う。

2011年4月24日記

高橋かつお