「あれはさすがにブルった。」
10メートルほどの大津波に向かって船を出して挑んだ時の山岡宏直さんの感想である。
私が山岡さんに初めてお会いしたのは撮影の前夜。相馬のお店で独りカウンターで待っていたところ、ひと際デカイ2人組の姿を目にし「来たな」と確信した。長年の船上の風格が滲み出ていた。連れの方は従兄弟でこれまた漁師の方。その日は金曜の晩、どうやらすでに一杯引っかけて来たらしく、山岡さんは最近始めた相馬の火力発電所での仕事で腕がアザだらけだと上機嫌で言った。なんでも船上と同じ感覚で動くと狭くて腕をぶつけるらしい。
山岡さんは相馬は原釜の船方。代々漁師の家に育ったが、二十歳くらいまでは漁師とは無縁の生活で、本人曰く「遊んでいた」。彼の風貌を見て相当派手に遊んだのだろうと推察しながら、あえてそれ以上は聞かなかった。が、結婚をしてブラブラしていたところを親父さんが船に乗ることを誘ってくれ、以来常に2人で沖に出て漁をしてきた。
洋上での漁の様子を伺うと、瞳を輝かせながら漁の醍醐味を語ってくれた。狭い漁場での漁師仲間との競争、大漁の際の満足感、洋上で食する魚の味、そして借金すら財産と言ってのける漁師の世界。まるで漁を為すことを奪われているストレスを一気に吐き出しているかのようだった。
実は山岡さんの親父さんは津波により未だに行方不明だ。地震直後に連絡をとって船での待ち合わせを約し、迫り来る津波に怯えながら待っていた。だがいつまでたっても親父さんは姿を見せなかった。ギリギリまで親父さんを待っていたが、手遅れになると仲間の漁師たちに諭され、山岡さんはやむなく彼らとともに沖に向かって船を出した。一人で船を出すのがその時初めてだったら、一人でハンドルを握るのも初めてだった。その初めてが、よりによって迫り来る津波に向かっての航海。モニターで10メートル程の津波と確認しつつ、親父さんがいつも握っていたハンドルにしがみついて大波を乗り越えた。一晩不安な夜を船上で過ごし原釜港に戻ると、そこには変わり果てた港の姿があった。沖に船を出した半数ほどの船は津波に呑まれて戻って来なかった。そして、親父さんは行方不明となった。
山岡さんは「もう少し親父さんを待っていたら」とよく自責の念に駆られるという。家族や仲間は山岡さんをなだめるが、今なお自身がとった行動に疑問を抱いている。
ふと「お父さんを奪った海は憎いですか?」と私が尋ねたところ、答えは否。「では山岡さんにとって海とは何ですか?」と尋ねると、困惑の表情を浮かべ、少し間を置いた後に「仕事場」と短く答えてくれた。海の酸いも甘いも知り尽くした上で漁を続ける者にとって、海とはまさに「自然」な存在なのだろう、訊いた僕が愚かだった。
山岡さんの荒々しくも純粋な姿を見てふと、船方に憧れていた自分を思い出した。仲間と共に荒海をくぐり抜け、一攫千金を手にする。漫画『ワンピース』さながらの世界。
出漁のメドは原発の影響で全く立っていないが、山岡さんは相馬を離れるつもりも、船方として沖に出ることを諦めるつもりも毛頭ない。何年かかるか分からない中でのその信念に、山岡さんの漁師としての誇りを見た気がする。
再出漁の際は是非同行させて下さいとお願いしてある。感動的な再出発の撮影もさることながら、獲れたての魚を船上で食したいという邪念を抱いている自分もいる。その時はせめて、撮影が一段落してから味わうことにしよう。
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