2011/09/20

原風景

海と山に挟まれし浜通り。
相馬から福島へ向かうと程なく、奥羽山脈に分け入る。
雨上がりの午後、辺りは霧に包まれ神秘的な雰囲気を帯びていた。
霧間に姿を見せる、太古から姿を変えずにそびえる山々と、先人が切り拓いた畑々。
まさに日本の原風景の一つ。
木々や草花は新鮮な水と空気、そして豊穣な大地に抱かれていた。
しかしこの大地はたった一回の、しかし致命的な事故により高濃度の放射能に穢されてしまった。

山は、木々は、草花は、今一体何を思っているのだろうか?


2011/09/09

内に宿りしDNA

「普通」ってなんだろ、そんなことを考えさせてくれた撮影だった。

津波で廃墟となった原町の老人ホームでの撮影も終盤を迎えた頃、一台の軽自動車が入ってきた。震災から3ヶ月以上も過ぎていたこの頃、津波の被害が甚大だったこの地域は一種の観光地と化しており、地元の車のみならず他県ナンバーの車が少なからず往来し、写真撮影やら記念撮影をするのが流行っていた。写真家という「言い訳」を使って他人の敷地をズケズケ歩いている僕が文句を言える身ではないのだが、それほど往き交う多かったため、その一台の軽自動車が入ってきても「また観光客か」くらいにしか思わず、入り口脇で撮影を続けていた。しかし降りてきた一人の若い女性は施設に目もくれず私の方へ寄ってきてこう尋ねた。「何をされているのですか」と。それまで僕は写真家特有の怪しい動きで地を這って天井を撮影していたので、不思議に思うのも無理もなかったであろう。一通り自己紹介をした後、こちらも尋ねてみた。

声をかけてきたのは小高区出身の江井良美さん、22才。家が原発20キロ圏内の警戒区域のため親戚の家がある鹿島区に避難している。何でも震災以前に曾祖母がこの老人ホームに入居しており、震災後何度目かの様子見に来たのだと言う。江井さんは僕のことを施設の職員かと思って声をかけてきたようだった。江井さんにとっては期待外れだったわけだが、僕にとっては飛んで火にいるなんちゃらと言うもの。まさか小高区出身の若い女性から声をかけられるとは予想だにしておらず、早速プロジェクトの概要を説明して撮影のオファーを出したが、久しぶりに会った友人をバス停まで送る途中とのことで、後日またお話することを約して別れた。

週明けに電話をしてみるとどうにも江井さんの歯切れが悪い。どうやら私が尋ねた『誇り』があまりに抽象的すぎて、答えに窮していたようだ。そこで僕が、江井さんにとっての拠り所となることや大切なことと言葉を変えたら、「大切なものや場所や思い出は全て小高にある」とのことことだった。

江井さんの撮影場所を決めるのは難儀した。何故なら江井さんは誇りである小高への愛着が強く、警戒区域外の場所にはこれといった思い入れがほとんどないからだ。結局少しでも小高と縁のある場所ということで、小高にいた頃毎年のように遊びに来ていた北泉の浜で撮影することにした。
撮影の日は雨にもかかわらず嫌な顔を一つせず撮影に臨んでくれた。少しでも浜の雰囲気をだそうと波に近づいてもらったら背後の波が気になるようで、時折不安そうな顔を浮かべていた。
江井さんは外見は今時の若い娘だけれど、性格は素直でノンビリしているまさしく東北の「フツー」の娘。
僕はこの「フツー」で良いと思う。近年、テレビや雑誌などで個性やらオンリー・ワンやらを強調しているが、あれは特殊な業界のなかで生き残るために生まれたようなもので、日常の単調な生活、こと単調になりがちな農村部の生活には必要ないように思う。しかしその単調さが逆に醍醐味でもあり、東北の人々は昔からそんな生活の中で祭りなどの独特な文化を育んできた。
小高は野馬追祭りで有名だが、東京の人間でなくとも、東北の人間でも震災前は小高という地名を知っている人は稀であったろう。けれどそこで普通の生活を営み、脈々と文化を受け継いで、小高が誇りと答える人々がいる。小高の人にとってはそれがフツーでも、よそ者にとって独特。その土地が生まれ持った人間が宿す、受け継がれしDNA。
そんな「フツー」な生活でで十分、いやそれこそがかけがえのないものだと思うのは僕だけだろうか?


2011/08/30

狭間

津波に襲われ廃墟となった老人ホーム。
3ヶ月を経ても時は止まり、数々の痕跡が残ったままだった。
圧倒的な力で押し寄せてきた津波と片田舎で幸せな余生を送っていた老人たちを、僕は想起していた。
その狭間でふと思った。彼らは何処に行ったのだろうか。
そしてヒトはこれから何処へ行くのだろうか。



2011/08/25

遠い日の忘れもの

遠い昔の忘れものを相馬で見つけるとは思いもしなかった。

今回のプロジェクトで高校生の写真を撮りたいと漠然と思っていた。そして意中のモデルはサッカー部員だった。しかし道端でサッカー部員に会うことはなく、痺れを切らして直接コンタクトをとったのが小高工業サッカー部だった。小高工業は校舎が警戒区域内にあるため現在は相馬を中心に福島、郡山等でサテライト授業を行なっている。部員は各々の校舎に散り散りになっているが、中心校がある相馬が部員数が多く、3年生は7人いる。

僕のプロジェクトの説明をした後に撮影に応じてくれたのが3年生の齋藤一樹くん。小高区出身で小学1年生の時に兄の影響でサッカーを始めた。震災後、齋藤くん一家は父が務めている会社の本社がある長野に避難した。このまま長野に移住して親も転勤、齋藤くんも転校と決まりかけた頃、齋藤くんは、小高工業がサテライト授業を行ないサッカー部も存続可能であると知って、親に福島帰郷を願い出た。やはり2年続けた小高工業サッカー部の名を背負って試合に出たいと。 親も齋藤くんの思いを汲み取り、サテライト中心校がある相馬に引っ越した。

齋藤くんはゲームキャプテンを務めており、チームのムードメーカー。震災後、齋藤くんが中心となってバラバラになっていた部員に連絡をとって部員たちを繋げた。だが各々の家庭の事情を最優先し、福島に残るよう説得することはしなかった。それでも3年生は13人の部員が残った。
大会が始まった今は福島県内に散らばっている部員に連絡をとってチームを引っ張っている。どのようにと尋ねると、「気持ちの面で意識を高め合ってる」と。特に環境のハンデを言い訳にしたくないと皆で言い合っているという。幸い練習量は例年と同じ位こなすことができ、チーム全体の連携も先週末の試合で思った以上に取れていたという。
就職や故郷のことなど不安な面はあるが、今はサッカーのことだけに専念していると齋藤君は語ってくれた。

だがふとした瞬間、隣人の物音が筒抜けの仮設住宅で「なんで自分はここにいるのだろう?」という感覚に陥ることがあるという。
奇遇ながらこの感覚、私も高校時代に陥った。皮肉なことにその時私はサッカーの試合中に選手ベンチ裏だった。中学から本格的にサッカーを始めた私は、いつしか高校サッカーで国立競技場に行くのを夢見ていた。だが高校に上がってから怪我が続き、高1の時に膝の手術を受けた。八ヶ月かかって復帰した後も、捻挫、脱臼と冗談みたいに怪我を連発し、終いには高3に上がる直前に再び膝の大怪我に見舞われ、サッカーを断念した。そんな僕が同級生の最後の戦いを一般客としてベンチ裏から見ていた時に「なんで自分はここにいるのだろう?」と思った。
もちろん、私は家に帰ることができるし、震災で失った人もいないので、齋藤くんの思いと並列して語るのは失礼かもしれない。しかし齋藤くんも言っていたけれど、あの頃の僕にとってはサッカーが全て。それが取り上げられた喪失感はハンパではなかった。その頃の自分の姿と、小高工業サッカー部の子らの今のこの逆境の姿を重ね合わせてしまっているのかもしれない。まるで高校生の時の僕の忘れものを見たかのように。

そうした極めて個人的な思いもあり、彼らの最後の挑戦を温かく見守りたいと思っている。正直、相馬とはいえ福島県内で屋外活動することに諸手を挙げて賛成できないし、放射線量が高い郡山でわざわざ予選を開催することには納得できないでいる。でも。小高工業の名前を背負って戦う決意をし、国立を夢見るサッカー少年たちを僕は止めることはできない。サッカーができない苦しみを人一倍知っているから。

そんな齋藤くんの誇りは『仲間』。チームが揃わないとサッカーはできないし、チームメイトは練習もプライベートも常に一緒だからとのこと。この状況下で仲間とサッカーをできることの喜びを噛みしめているのは想像に難くない。実際練習を見学させてもらっていても、グランドは相馬東高校の空いた時間しか使用できないのにもかかわらず、皆明るく元気に、そしてサッカーを楽しんでやっていた。齋藤くんは『仲間』が「一生の宝ものになるっす」と言った。
練習後、そんな齋藤くんと一緒にチームキャプテンの長尾雄太くんが撮影に応じてくれた。最初はお互い照れていたが、そこは気心しれた間柄、すぐに気持ちを一つにしてカメラの前に立ってくれた。
後日プリントを見て気付いた。僕は彼らに若かりし頃の見果てぬ夢を託していたことに。勝手に夢を託されてもいい迷惑だろうが、正月の国立までとは言わないまでも一日でも長く『仲間』と共にサッカーを続けられることを祈っている。

写真:齋藤くん(右)と長尾くん(左)



2011/08/19

末路

水田の上で行き場を失った大型漁船。

まるで太平洋戦争末期に散った戦艦大和の運命のようだった。

空母を中心とした航空戦が主流になりつつあった時に、国を挙げて造られた時代遅れの巨大戦艦。

その末路は片道燃料での玉砕だった。

技術にしろ物にしろ、時代や場所に見合ったものでなければ、それはもはや無用の長物でしかない。



2011/08/15

幸せなループ

幸せな関係を、相馬の港町で見た。

その幸せな関係は相馬市のみなと保育園にて育まれている。みなと保育園は松川浦から目と鼻の先にあり、距離にすると100メートル足らず。幸いちょっとした高台にあるため保育園は津波の被害を免れた。海が近いからか懸案の放射線量も、毎日行なっている独自検査によると比較的安定している。

この保育園で働く佐藤あずみ先生は、幼い頃はみなと保育園に通っていた。家は保育園から数百メートルの場所にあり、まさに地元っ子。あずみ先生は小学校に上がってしばらくした頃には「保育士さんになりたい」と子供ながら思い描いていた。この思いは高校生なっても変わらず、高校卒業後は宮城県の短大まで自宅から通い、卒業してからはストレートでみなと保育園に戻ってきた。
保育士さんを志した理由は、あずみ先生曰く「子供が好きだから」。長年描いてきたお仕事は大変だがやりがいを感じていると言う。

実は私はこの保育園を訪れる前にあづみ先生と3回お会いしている。初めてお会いしたのは、あづみ先生が友達と仙台に車で行く際にたまたま乗り合わせた時で、あまり喋る機会もなかった。2回目は以前ブログで紹介した相馬のバー『101』にふらっと寄った時。この時あづみ先生は女友達と楽しく飲んでいて、図々しく混ざって楽しめば良いものを、シャイな僕は短い挨拶を交わした後、独りカウンターでチビチビ酒を呷っていた。3回目は僕が相馬の駅前のラーメン屋さんに行った時。あづみ先生はご家族で夕食中で、この時も短い挨拶を交わしただけだった。お会いした3回とも「こんど写真を撮らせて下さいね」と軽くはお願いしていたが、実現はしなかった。
ところがふとしたきっかけみなと保育園に行く機会ができ、そこで撮影は実現した。働いているあずみ先生はザ・保育士さんとでも言うべきか、とにかく明るく元気。それもそのはず、みなと保育園の雰囲気全体が明るく元気なのだ。子供は港町なため男の子も女の子もやんちゃ者が多く、都会の親なら吃驚するような豪快な遊びをする。撮影時も腕を掴まれるわ、気づいたら背中に子供が乗っかって来ているわ、と、何かと体力を使わせてもらった。
年間、いろいろなイベントを企画してるみなと保育園。たとえば、野馬追祭の前には、子供たちに武士の恰好をさせるミニ野馬追を企画、その際園長先生は自らダースベイダー調の武士に扮して音頭を取った。そうした園長先生のおおらかな気風がそのまま保育士さんに反映されている。

地元の明るく元気な保育園で育ち、大人になって明るく元気な保育士さんとして働き、明るく元気な子供を育てる。ありふれた話かもしれないが、人々の生活を根こそぎ奪う原発事故の後も、脈々と続いているこの幸せなループが僕には愛おしい。



2011/08/08

献身の精神


このシリーズを始めて以来、僕は看護婦さんを探していた。別に個人的な趣味ではなく、震災後、原発事故後のこの状況で病院に残っている方はさぞ誇りを持って働いているだろうと思ったからだ。だが出会いはいっこうになく半ば諦めかけていた頃、取材先の相馬の幼稚園で看護学校の学生さんが実習に来ていると聞き、早速紹介して頂いた。

実習に来ていたのは相馬看護専門学校3年生の6人だったが、4人は宮城県から通っているとのことで、残りのお2人にお話を伺う。その内のお1人が鎌田美咲さん。出身は警戒区域内の小高区で、家は津波により流されてしまい原町区で暮らしているという。私のプロジェクトの説明をした後に、「あなたの誇りは何ですか?」と尋ねると、困惑しつつも「看護師を目指していることです」と答えてくれた。さらに「失うものは何もなく、前に進むしかない」と語り、しっかりと前を見据えていた。どうせ撮影するなら制服姿でとお願いしたら、ちょうど2日後は学校で自習とのことなので、さっそくアポをとった。

当日学校に行って鎌田さんにお会して話してみると、ちょっと様子が変、と言うより声がほとんど出ない。どうやら風邪をこじらせたよう。幸い撮影は可能とのことなので撮影を済ませ、インタビューは後日することに。

後日お話を伺うと、思っていた以上にしっかり者だった。母親が介護福祉士として働いている姿を幼い頃から見ていたので、「人と関わる仕事がしたかった」からと看護師を高校2年の時に志した。震災前は、看護学校卒業後は隣町の原町の病院に勤めるつもりでいた。理由は、自分を育ててくれた大好きな地元をこれからは自分が支えたいと思っていたから。そして患者さんにとっても、地元の知っている人が看護師としていた方が安心するのではないかと、患者さんのことまでしっかり考えていた。さらに鎌田さんは働く病棟も急性期と決めている。その訳は自分が看護師として見返りを求めているのは金銭的報酬ではなく、「ありがとう」という患者さんの言葉や、患者さんの目に見える回復という心理的報酬であり、そうでないとモチベーションが保てない自分を知っているからだと言う。

これだけ自分の考えを整理できているだけで素晴らしいのに、近い将来看護師として働く覚悟もすでにできていると言う。もちろん仕事は厳しいだろうし、人と向き合う仕事は責任重大なので不安もあると言う。だが学校の授業を通して今まで色々学んだので、誠意を持って向き合えばなんとかなるに違いないと信じているそうだ。鎌田さんのお話を伺っていると、僕が鎌田さんぐらいの年の頃、何も考えていなかった自分がなんだか恥ずかしくもあり、だからこそ今の彼女のこの姿勢は立派だと素直に感心もした。

ここまでお話を伺って撮影の時に鎌田さんの様に納得がいった。制服姿になった鎌田さんはこちらがビックリするほど落ち着いた、堂々たる様だったのである。まるで現役の看護師さん、いや看護師長さんくらいの雰囲気を醸しだしていた。やはり外見は内面を映し出す鏡だなと思った。

インタビューの最後に誇りについてもう一度尋ねると、今度はキッパリと彼女は言った、「自分より他人を優先的に考える看護師を目指している自分」と。この献身の精神、今この時代でとても大事な精神な気がする。そしてこの精神を産み出す大地、文化に人々が今立ち入れないという事実が、あまりにも重い。