2ヶ月以上を経ても、墓石は津波で流されたままだった。
生活再建の優先に加えて、津波再来や放射能を案じて、みな手をつけられないでいる。
血縁が濃いこの地域の人々にとって、先祖のお墓を放置する無念はひとしおだろう。
荒涼とした大地で、墓石が夕日を浴びて光輝いていた。
まるで、そこに在ることを呼びかけているかの如く。
2011/06/06
2011/06/02
若さの秘訣
お年を伺って驚いた、67歳。その若さの源は馬力ならぬ牛力だと言う。
南相馬市原町区の中心から自転車で15分ほど北西に進むと、民家もまばらになり山も近づき深野地区に入る。そして山へ分け入る急坂の小道を、勢いをつけて駆け上がると風景は一変し、そこには山間の牧草地帯が広がっている。この牧草地帯の一番奥にある牛舎で、門馬敬典さんは100頭以上の肉 牛を飼育しながら生活している。
門馬さんはこの道40年以上のベテランの牛飼いさんだが、家は代々競走馬の育成をしていた。門馬さんもその家業を引き継いだが、ハイリスク・ハイ リターンの不安定な仕事に嫌気がさし、一発奮起して定期的に収入が入る肉牛の飼育を始めた。以来規模を徐々に大きくし、奥さん、娘夫婦の4人で順調に飼育していた。その時に襲ってきた今回の大震災。幸い地震による被害は殆ど無かったが、その後に続いた原発事故の影響で、幼い子どもをもつ 娘夫婦は山形に避難を余儀なくされた。
原発事故後、門馬さんは奥さんと話し合い「最初から避難しないと腹を括って」いた。どんなに餌をやって避難したとしても牛は餌を分けて食べることなどせず、すぐに餌は底を尽きてしまう。門馬さんは牛飼いとして、そんな牛たちを残して避難することなどできなかったという。
2人で残った門馬さん夫婦は、震災以前は4人でやっていた作業を老夫婦でこなさなければならなくなったが、この状況になって門馬さんは気付いた。自分が牛を支えているのではなく、牛に支えられているのだ、と。門馬さんは言う、「大震災で牛がいなくなってしまったら生きる力が無くなってしまう」と。「年をとっても牛扱いをやってられるからなんとか気力が湧く」のだそうだ。そんな門馬さんの誇りは、もちろん牛。
ふと気になって門馬さんの牛のセールスポイントを尋ねてみた。答えに窮している門馬さんを見て愚問だったと思い始めたが、ふと「事故が少ないことかな」と答えてくれた。早期発見・早期治療をモットーとし、事故が少ないのがウリだと言う。「なんだ、あるじゃないですか」とよほどツッコミを入 れようかと思ったけれど、牛を日々観察して状態を確認したり、愛情を持って接したりというのは門馬さんにとっては牛飼いとして当然のことなのだと察し、軽率なことを言わなくて良かったと安堵した。
お話も終わり、お忙しいとこ長々とすみませんと私が言うと、「アッハッハー、バリバリ仕事やってたら体なくなっちめーよ」と豪快に返された。
牛力を漲らせた門馬さんから、若さの秘訣を垣間見た気がした。
南相馬市原町区の中心から自転車で15分ほど北西に進むと、民家もまばらになり山も近づき深野地区に入る。そして山へ分け入る急坂の小道を、勢いをつけて駆け上がると風景は一変し、そこには山間の牧草地帯が広がっている。この牧草地帯の一番奥にある牛舎で、門馬敬典さんは100頭以上の肉 牛を飼育しながら生活している。
門馬さんはこの道40年以上のベテランの牛飼いさんだが、家は代々競走馬の育成をしていた。門馬さんもその家業を引き継いだが、ハイリスク・ハイ リターンの不安定な仕事に嫌気がさし、一発奮起して定期的に収入が入る肉牛の飼育を始めた。以来規模を徐々に大きくし、奥さん、娘夫婦の4人で順調に飼育していた。その時に襲ってきた今回の大震災。幸い地震による被害は殆ど無かったが、その後に続いた原発事故の影響で、幼い子どもをもつ 娘夫婦は山形に避難を余儀なくされた。
原発事故後、門馬さんは奥さんと話し合い「最初から避難しないと腹を括って」いた。どんなに餌をやって避難したとしても牛は餌を分けて食べることなどせず、すぐに餌は底を尽きてしまう。門馬さんは牛飼いとして、そんな牛たちを残して避難することなどできなかったという。
2人で残った門馬さん夫婦は、震災以前は4人でやっていた作業を老夫婦でこなさなければならなくなったが、この状況になって門馬さんは気付いた。自分が牛を支えているのではなく、牛に支えられているのだ、と。門馬さんは言う、「大震災で牛がいなくなってしまったら生きる力が無くなってしまう」と。「年をとっても牛扱いをやってられるからなんとか気力が湧く」のだそうだ。そんな門馬さんの誇りは、もちろん牛。
ふと気になって門馬さんの牛のセールスポイントを尋ねてみた。答えに窮している門馬さんを見て愚問だったと思い始めたが、ふと「事故が少ないことかな」と答えてくれた。早期発見・早期治療をモットーとし、事故が少ないのがウリだと言う。「なんだ、あるじゃないですか」とよほどツッコミを入 れようかと思ったけれど、牛を日々観察して状態を確認したり、愛情を持って接したりというのは門馬さんにとっては牛飼いとして当然のことなのだと察し、軽率なことを言わなくて良かったと安堵した。
お話も終わり、お忙しいとこ長々とすみませんと私が言うと、「アッハッハー、バリバリ仕事やってたら体なくなっちめーよ」と豪快に返された。
牛力を漲らせた門馬さんから、若さの秘訣を垣間見た気がした。
2011/05/30
不惑のひと
萱浜(かいはま)は南相馬市原町区の海沿いの部落で被災以前は緑豊かな部落だったが、津波によってほぼ全てが呑み込まれ景色が一変。何もかもが無くなってしまった。
この部落で大規模農業を営んでいた八津尾初夫さんも例にもれず家の他、ビニールハウスの全てを失い丹精込めた農地も荒れ果てた姿に変わってしまった。
しかし原発騒動が未だ収まらない中、八津尾さんは早くも農業の復興に取り組んでいる。4月には畑の塩害調査としてジャガイモと大根を植え、近いうちには水田の塩害調査として田植えをする予定である。
そんな八津尾さんの描く未来の萱浜の村は、生産・加工・販売を一手に担う経営的農業を確立して若者でも農業で暮らせるようにし、緑豊かな土地で子供たちが育つ村である。また海沿いにレストラン建て、海と松林を眺めながら地元で育った作物を提供する案に想いを馳せる。
順調に復興に邁進しているように見える八津尾さんだが、実は津波により最愛の妻、一子さんを失っている。初夫さんと一子さんは結婚以来、常に新しい農業について話し合い、経営的農業の確立を目指して共に歩んできた。何事にも情熱を傾けていた一子さんの想いを実現させるため、一子さんを失ってもなお、八津尾さんは前に進むことを決意した。
今回の被災で八津尾さんがつくづく感じたことは、地域の和の重みだと言う。被災以前は新年会や花見など何かにつけて地域の方々と行動を共にしていたが、被災して声を掛け合ったり協力してくれるのもまた彼らだった。そんな地域の和が八津尾さんの誇りであり、将来は被災以前よりも素晴らしい萱浜の村を作り上げ、そこで子供たちが育って欲しいと願っている。
ここまでお話を伺って、私は自分の眼が節穴だったことに気付いた。私は淡々と、しかし誠実に対応してくださる八津尾さんを純粋な方だと思っていた。しかし、それは良い意味で違った。ただ単に純粋なだけでなく、悲しみ全てを受け入れた上で、それでも惑うことなく静かに、しかし力強く前に向かっていたのだ。まさに不惑の姿とでも言うべきか。
八津尾さんの当面の目標は萱浜の地を向日葵の花で埋め尽くすことだそうだ。なんでも作付け面積一位は北海道のとある町の21.5ヘクタールなので、まずはそれ以上にしたいとのこと。今夏一面に咲き誇る向日葵を見るのを私は今から楽しみにしている。でも、表面の美しさにだけ惑わされて本質を見落とすことだけはしないよう、気をつけていこうと思う。
この部落で大規模農業を営んでいた八津尾初夫さんも例にもれず家の他、ビニールハウスの全てを失い丹精込めた農地も荒れ果てた姿に変わってしまった。
しかし原発騒動が未だ収まらない中、八津尾さんは早くも農業の復興に取り組んでいる。4月には畑の塩害調査としてジャガイモと大根を植え、近いうちには水田の塩害調査として田植えをする予定である。
そんな八津尾さんの描く未来の萱浜の村は、生産・加工・販売を一手に担う経営的農業を確立して若者でも農業で暮らせるようにし、緑豊かな土地で子供たちが育つ村である。また海沿いにレストラン建て、海と松林を眺めながら地元で育った作物を提供する案に想いを馳せる。
順調に復興に邁進しているように見える八津尾さんだが、実は津波により最愛の妻、一子さんを失っている。初夫さんと一子さんは結婚以来、常に新しい農業について話し合い、経営的農業の確立を目指して共に歩んできた。何事にも情熱を傾けていた一子さんの想いを実現させるため、一子さんを失ってもなお、八津尾さんは前に進むことを決意した。
今回の被災で八津尾さんがつくづく感じたことは、地域の和の重みだと言う。被災以前は新年会や花見など何かにつけて地域の方々と行動を共にしていたが、被災して声を掛け合ったり協力してくれるのもまた彼らだった。そんな地域の和が八津尾さんの誇りであり、将来は被災以前よりも素晴らしい萱浜の村を作り上げ、そこで子供たちが育って欲しいと願っている。
ここまでお話を伺って、私は自分の眼が節穴だったことに気付いた。私は淡々と、しかし誠実に対応してくださる八津尾さんを純粋な方だと思っていた。しかし、それは良い意味で違った。ただ単に純粋なだけでなく、悲しみ全てを受け入れた上で、それでも惑うことなく静かに、しかし力強く前に向かっていたのだ。まさに不惑の姿とでも言うべきか。
八津尾さんの当面の目標は萱浜の地を向日葵の花で埋め尽くすことだそうだ。なんでも作付け面積一位は北海道のとある町の21.5ヘクタールなので、まずはそれ以上にしたいとのこと。今夏一面に咲き誇る向日葵を見るのを私は今から楽しみにしている。でも、表面の美しさにだけ惑わされて本質を見落とすことだけはしないよう、気をつけていこうと思う。
2011/05/25
馬と共に、
一人の女性に馬への愛情も写真の経験も圧倒され、逆に心地良かった。
その人はNPO法人「馬とあゆむSOMA」でボランティアをしている中野美夏さん。このNPO法人は震災以前、相馬市を中心に障がい者のためのホスセラピーを行なっていたが、被災後の今、被災馬の救出、保護に奔走している。
出身も育ちも川崎市。しかし父親が川崎競馬の元騎手・調教師だった関係で幼い頃から日常的に馬と接していた中野さんにとって、馬は「家族であり、師匠でもある」と言う。父の実家が南相馬市鹿島区だったため、相馬野馬追祭の際はほぼ毎年帰省し、18歳までは馬に乗って行列にも参加していたという。中野さんは父の死後の3年ほど前、鹿島区に家族と共に移り住むことを決意。馬場も併設された海沿いの新築の家に2頭の馬を飼育して暮らしていた。そこに襲ってきた今回の津波。被災して家も愛馬も失ってもなお、「馬がいるから頑張ろう」と思え、生き残った馬の世話を続けている。
実は私は子供の時から馬を見るのが好きで、中学の卒業文集では将来の夢を「馬の牧場経営」と記し、大学時代は休みの度に馬小屋に籠っては馬の世話をしホースラバーを自称していたが、中野さんの馬への想いにはとうてい及ばず、勝手に負けを痛感していた。
二度目にお話をした時、密かにリベンジを窺っていた。そこで話がちょうど写真の方へと流れていった。聞けば中野さんは幼い頃からカメラを持ち歩いて写真を撮っていたという。野馬追や馬の写真も撮っていたが、カメラの機能には無頓着でオートモードで撮っていたようだ。名誉挽回のチャンスと勇み、写真家として活動していることをいいことに、「今度教えましょうか?」などと軽口を叩いてしまった。謙虚な中野さんはやさしく笑って受け流されたが、馬を撮った写真が何枚か残っているということで早速見せてもらうと、ポストカードにされた写真が眩く輝いていた。朝日を背景に浜を走る馬を撮影した写真なのだけれど、馬を愛し、地元の波と光を熟知し、長年の写真の経験が滲み出た傑作だった。ここに至り、馬を撮ることに関しては経験も圧倒されたと認めざるを得ず、まさに完膚なきまでに叩きのまされ気分だった。しかし不思議と、それは心地良かった。
馬と生き、生かされ、馬に教え、学んできた中野さんの人生。これからも中野さんは誇りとする馬と共に歩んで行くのだろう。
私はと言えば。とりあえず馬の写真を撮っていると気軽に口外するのはやめにしようと思う。少なくとも馬関係者の前では。
★中野さんの馬の写真はこちら→「馬とあゆむSOMAのブログ」
その人はNPO法人「馬とあゆむSOMA」でボランティアをしている中野美夏さん。このNPO法人は震災以前、相馬市を中心に障がい者のためのホスセラピーを行なっていたが、被災後の今、被災馬の救出、保護に奔走している。
出身も育ちも川崎市。しかし父親が川崎競馬の元騎手・調教師だった関係で幼い頃から日常的に馬と接していた中野さんにとって、馬は「家族であり、師匠でもある」と言う。父の実家が南相馬市鹿島区だったため、相馬野馬追祭の際はほぼ毎年帰省し、18歳までは馬に乗って行列にも参加していたという。中野さんは父の死後の3年ほど前、鹿島区に家族と共に移り住むことを決意。馬場も併設された海沿いの新築の家に2頭の馬を飼育して暮らしていた。そこに襲ってきた今回の津波。被災して家も愛馬も失ってもなお、「馬がいるから頑張ろう」と思え、生き残った馬の世話を続けている。
実は私は子供の時から馬を見るのが好きで、中学の卒業文集では将来の夢を「馬の牧場経営」と記し、大学時代は休みの度に馬小屋に籠っては馬の世話をしホースラバーを自称していたが、中野さんの馬への想いにはとうてい及ばず、勝手に負けを痛感していた。
二度目にお話をした時、密かにリベンジを窺っていた。そこで話がちょうど写真の方へと流れていった。聞けば中野さんは幼い頃からカメラを持ち歩いて写真を撮っていたという。野馬追や馬の写真も撮っていたが、カメラの機能には無頓着でオートモードで撮っていたようだ。名誉挽回のチャンスと勇み、写真家として活動していることをいいことに、「今度教えましょうか?」などと軽口を叩いてしまった。謙虚な中野さんはやさしく笑って受け流されたが、馬を撮った写真が何枚か残っているということで早速見せてもらうと、ポストカードにされた写真が眩く輝いていた。朝日を背景に浜を走る馬を撮影した写真なのだけれど、馬を愛し、地元の波と光を熟知し、長年の写真の経験が滲み出た傑作だった。ここに至り、馬を撮ることに関しては経験も圧倒されたと認めざるを得ず、まさに完膚なきまでに叩きのまされ気分だった。しかし不思議と、それは心地良かった。
馬と生き、生かされ、馬に教え、学んできた中野さんの人生。これからも中野さんは誇りとする馬と共に歩んで行くのだろう。
私はと言えば。とりあえず馬の写真を撮っていると気軽に口外するのはやめにしようと思う。少なくとも馬関係者の前では。
★中野さんの馬の写真はこちら→「馬とあゆむSOMAのブログ」
2011/05/23
根を、張る
根を浮かせつつも、大地にしがみつく一本の木。
幹の隣には、一輪の水仙の花。
枝に目を移せば、人知れず芽葺いていた。
そこにあるのは、根を張るものが持っている底知れぬ力。
ふと思う、この地に根付いた文化はどうだろうかと。
これからもこの大地で根を伸ばし、華咲かせられるのだろうか。
幹の隣には、一輪の水仙の花。
枝に目を移せば、人知れず芽葺いていた。
そこにあるのは、根を張るものが持っている底知れぬ力。
ふと思う、この地に根付いた文化はどうだろうかと。
これからもこの大地で根を伸ばし、華咲かせられるのだろうか。
2011/05/20
見返りは、求めない
屋内退避指示が解除されても、依然多くの避難者が身を寄せあっていた南相馬市の原町第一小学校。この小学校の入口でバイク好きでもない私が、バイクを見て目を見張った。しかもカブに。
そのバイクはホンダのスーパーカブ50。新聞配達で大活躍している、アレだ。燃費が良く、故障も少ないので、発展途上国でも重宝されている。
そのカブをさり気なく大改造したのが時田昌夫さんだ。この「さり気なく」がポイントで、これはあくまでも個人的な感想だけれども、バイクを改造すると大抵が「品」がなくなる。けど、時田さんは塗装だけに30万、その他を含めると総額40万ほどの大改造をしても見かけは少ししか変わっておらず、シュールさすら醸し出す傑作となっている。時田さんはこのカブを「恋人のようなもの」と言って憚らない。
カブを愛する時田さんは、人の頼みをNOと言えない人情も持ち合わせている。時田さんは原発20キロ圏内の南相馬市小高区出身で、原発が爆発した3月13日に原町区に避難したが、この避難先でこれから遠方に避難する知人3人から小高区内のイヌ・ネコ計25匹の餌やりを頼まれた、危険を承知で17日に小高区に舞い戻った。
戻った小高区では電気が辛うじて来ていただけで、水道・ガスは止まっていた。そこで時田さんは愛車のカブを走らせ、水は山で井戸水を汲んで確保し、食料は隣町の原町区まで買い出しに行き、主にカップラーメンで食いつないだ。この頃時田さんは原発の恐怖に怯え、行政からは見捨てられ、警察・自衛隊からは逃げるように暮らし、四面楚歌状態だった。
だがこの生活も長くは続かず、20キロ圏内が警戒区域に指定された4月22日に終わりを迎えてしまい、荷物をまとめて愛車のカブで原町区へと避難した。
彼の行動は、端から見ると少々愚直だったかもしれない。だが、見返りを求めず為した彼の行動に、私は美しさすら感じる。ちょうど、時田さんが愛車のカブを愛し、このカブで近くの峠や海岸沿いを走って楽しんでいたように。だが今やその峠は放射能で汚染されて立ち入ることはできず、海岸沿いは津波によって景色が完全に変わってしまった。
時田さんが誇りとするカブで、愛して止まない故郷を元の姿で走ることのできる日は来るのだろうか?
そのバイクはホンダのスーパーカブ50。新聞配達で大活躍している、アレだ。燃費が良く、故障も少ないので、発展途上国でも重宝されている。
そのカブをさり気なく大改造したのが時田昌夫さんだ。この「さり気なく」がポイントで、これはあくまでも個人的な感想だけれども、バイクを改造すると大抵が「品」がなくなる。けど、時田さんは塗装だけに30万、その他を含めると総額40万ほどの大改造をしても見かけは少ししか変わっておらず、シュールさすら醸し出す傑作となっている。時田さんはこのカブを「恋人のようなもの」と言って憚らない。
カブを愛する時田さんは、人の頼みをNOと言えない人情も持ち合わせている。時田さんは原発20キロ圏内の南相馬市小高区出身で、原発が爆発した3月13日に原町区に避難したが、この避難先でこれから遠方に避難する知人3人から小高区内のイヌ・ネコ計25匹の餌やりを頼まれた、危険を承知で17日に小高区に舞い戻った。
戻った小高区では電気が辛うじて来ていただけで、水道・ガスは止まっていた。そこで時田さんは愛車のカブを走らせ、水は山で井戸水を汲んで確保し、食料は隣町の原町区まで買い出しに行き、主にカップラーメンで食いつないだ。この頃時田さんは原発の恐怖に怯え、行政からは見捨てられ、警察・自衛隊からは逃げるように暮らし、四面楚歌状態だった。
だがこの生活も長くは続かず、20キロ圏内が警戒区域に指定された4月22日に終わりを迎えてしまい、荷物をまとめて愛車のカブで原町区へと避難した。
彼の行動は、端から見ると少々愚直だったかもしれない。だが、見返りを求めず為した彼の行動に、私は美しさすら感じる。ちょうど、時田さんが愛車のカブを愛し、このカブで近くの峠や海岸沿いを走って楽しんでいたように。だが今やその峠は放射能で汚染されて立ち入ることはできず、海岸沿いは津波によって景色が完全に変わってしまった。
時田さんが誇りとするカブで、愛して止まない故郷を元の姿で走ることのできる日は来るのだろうか?
2011/05/18
辿り着いた「場所」
ゴールデンウィークに入り全国各地からボランティアが南相馬市に集い始めていた或る日、私は午前中に2つの撮影を済ませ、昼食と一服のコーヒーを頂きに南相馬市原町駅近くの珈琲屋さんに立ち寄った。入ってすぐ、カウンターに独り座る男性が目に飛び込んできた。私はシュールな雰囲気に息をのみ、声をかけるのを躊躇ってテーブル席に腰を下ろした。
その男性がおかわりをマスターに頼む声が聞こえた。見ればお湯割りを呑んでいるようだ。大荷物を背負ってゴソゴソしていた私は独り酒の恰好の標的だったのだろう、早速その男性が
「ボランティアさん?」
と声をかけてくださった。
「いえ、東京から来た写真家です」
そう答え、続けて私のプロジェクトを説明し、お話を伺った。お名前は川田雅信さん、60歳。聞けば、川田さんは日本各地の原発の労働に30年以上も従事していたと言う。原町で原発労働者にお会いできるとは思っていなかった私は小躍りしたが、このまま話を続けるには困ったことがあった。まだ昼過ぎだというのに川田さんはすでに酔っておられたのだ。私が話の真偽を訝っていると、こちらの空気を察した川田さんは原発手帳を見せてくれた。事実を確認した私は、そのまま話を続けてもらった。
原町は奥さんの故郷であり生活の拠点としていたこと、その奥さんを3年前に亡くしたこと、もう今は原発労働に従事していないこと、長年の原発労働で慢性的な倦怠感に悩み薬を毎日服用していること。
今は市役所で、震災後に欠配となっている各社の新聞を毎朝配るボランティア活動をしていると言う。なんでも、市役所前には被災状況や原発の状況に憂慮している大勢の市民が朝の3時前から並び混乱するので、列の整理と、ゴミ拾いをしているのだそうだ。理由は「他に出来る人がいない」ので。
そして川田さんの「誇り」をお尋ねすると、今やっているボランティア活動だという。
私は少し不審に思った。ついこの間始めたボランティアが誇りなのか、と。私は繰り返し尋ねたが、答えは同様だった。
堂々巡りになっていったので、翌朝市役所前でお会いすることを約束して私は珈琲屋を出た。
果たして翌朝6時前に市役所に行くと、そこには川田さんが誇らしげに活動している姿があった。前日にお会いした際の酔っている姿からは打って変わって、テキパキと動き、「ありがとう」と声をかけられると笑顔で応えていた。
この姿を見て私は思った。原発での仕事とは異なり、人と触れ合い、人から「ありがとう」言われるのが川田さんは嬉しいのではないか、と。奥さんを亡くした今、この「場所」こそ彼が寂しさを紛らわすことができ、胸を張って働ける場所なのではないか、と。私の言葉に、川田さんは直截には返事をしない。ただ、「そうかもね」とポツリと答えるだけだった。
南相馬市の屋内退避指示が解除されたのを受け、市役所 前の各社の新聞配りは予定ではもう終わっているはずだ。彼がまた、彼の「場所」に辿り着けることを、切に願う。
その男性がおかわりをマスターに頼む声が聞こえた。見ればお湯割りを呑んでいるようだ。大荷物を背負ってゴソゴソしていた私は独り酒の恰好の標的だったのだろう、早速その男性が
「ボランティアさん?」
と声をかけてくださった。
「いえ、東京から来た写真家です」
そう答え、続けて私のプロジェクトを説明し、お話を伺った。お名前は川田雅信さん、60歳。聞けば、川田さんは日本各地の原発の労働に30年以上も従事していたと言う。原町で原発労働者にお会いできるとは思っていなかった私は小躍りしたが、このまま話を続けるには困ったことがあった。まだ昼過ぎだというのに川田さんはすでに酔っておられたのだ。私が話の真偽を訝っていると、こちらの空気を察した川田さんは原発手帳を見せてくれた。事実を確認した私は、そのまま話を続けてもらった。
原町は奥さんの故郷であり生活の拠点としていたこと、その奥さんを3年前に亡くしたこと、もう今は原発労働に従事していないこと、長年の原発労働で慢性的な倦怠感に悩み薬を毎日服用していること。
今は市役所で、震災後に欠配となっている各社の新聞を毎朝配るボランティア活動をしていると言う。なんでも、市役所前には被災状況や原発の状況に憂慮している大勢の市民が朝の3時前から並び混乱するので、列の整理と、ゴミ拾いをしているのだそうだ。理由は「他に出来る人がいない」ので。
そして川田さんの「誇り」をお尋ねすると、今やっているボランティア活動だという。
私は少し不審に思った。ついこの間始めたボランティアが誇りなのか、と。私は繰り返し尋ねたが、答えは同様だった。
堂々巡りになっていったので、翌朝市役所前でお会いすることを約束して私は珈琲屋を出た。
果たして翌朝6時前に市役所に行くと、そこには川田さんが誇らしげに活動している姿があった。前日にお会いした際の酔っている姿からは打って変わって、テキパキと動き、「ありがとう」と声をかけられると笑顔で応えていた。
この姿を見て私は思った。原発での仕事とは異なり、人と触れ合い、人から「ありがとう」言われるのが川田さんは嬉しいのではないか、と。奥さんを亡くした今、この「場所」こそ彼が寂しさを紛らわすことができ、胸を張って働ける場所なのではないか、と。私の言葉に、川田さんは直截には返事をしない。ただ、「そうかもね」とポツリと答えるだけだった。
南相馬市の屋内退避指示が解除されたのを受け、市役所 前の各社の新聞配りは予定ではもう終わっているはずだ。彼がまた、彼の「場所」に辿り着けることを、切に願う。
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