2011/05/16

もらった命

命は与えたり、もらったりするものではないが、弱冠20歳の青年は『もらった命』と臆することなく言ってのけた。

津波が全てを呑み尽くし、その後に残った瓦礫も自衛隊によって片付けられた4月下旬の南相馬市原町区渋佐。私はここで荒くんと出会った。彼を一目見て、彼の大きな体躯から溢れる愛くるしい笑顔と、奥底に潜む強い意志に惹かれた。
小さい頃から機械を触るのが好きだった荒くんは、地元の高校を卒業後に就職し、自宅のある渋佐から通って勤めている。この日は仕事がお休みで、近所付き合いがあるお宅の家の片付けを手伝っていた。
彼の手が空いた頃合いを見計らって早速、撮影を申し入れたところ快諾してくれた。一通りお話を伺った後、撮影を兼ねて地元の被災地を案内してもらうと、彼の地元愛が堰を切ったように流れ出し、多くの思い出を語ってくれた。
「この季節になると村は田植えとその準備で大忙しだった」、「村人のほとんどが顔見知りで、年長者にかわいがってもらった」、「この地元を離れるつもりは全くない」、等々、もうこれでもかという位に地元愛のオンパレードだった。
そして彼の誇りは当然、地元。彼の夢は自分を育ててもらった渋佐を「20年、30年かかるか分からないが、元通りにすること」だそうだ。
彼が愛してやまない地元での撮影中、突然分厚い雲間から光が降り注いできた。光をバックにした荒くんは、まるで地上に舞い降りてきた救世主のように見えた。

帰る道すがら、逞しく生きる雑草を見て彼は独りごちた。
「草は強ぇーなぁ」
続けて言った。
「自分の命は亡くなった人々からもらった命。代わりに生きて行くつもり」と。
彼が背負ったものの大きさを危惧したが、彼ならやってのけると信じ、私は彼に別れを告げた。

2011/05/14

巡りめく

時は平等に刻まれ、季節は移ろう。
咲く花あれば、散る花もある。
逝く者もいれば、生を授かる者もいる。
巡りめく、この世界。

2011/05/11

サナギから蝶へ

子供でも逆境を糧にして成長するんだなと、まるで我が子のように感心した。

南相馬市の原町第一小学校は避難所となっており、震災から1ヶ月近く過ぎた4月上旬になっても市内外から100人以上の避難者が身を寄せ合って暮らしていた。この頃になると避難者たちは、家に戻れないことや家族を失った現実と向き合いつつ途方に暮れていた。加えてこの小学校は屋内退避指示圏内であっため、 避難所となっていた体育館の窓は終日閉め切られており、重苦しい雰囲気が漂っていた。

しかしこの体育館の空気を一人、颯爽と切り裂く者がいた。ななちゃん、4才だ。ななちゃんは体育館の中を歩き回っては誰彼構わず喋り、生活空間を仕切る段ボールの「壁」をものともせず遊んでもらっていた。ななちゃんが「遊んでもらっていた」と言うより、避難者が 「遊んでもらっていた」と言う方が正しいかもしれない。実際、ななちゃんと接して避難者は「元気をもらった」、「ななちゃんがいて良かった」 等々と言っている。私もななちゃんに「おにいちゃん」として遊んでもらって、一日の疲れを癒してもらった身である。

避難所の多くの人から愛されていたななちゃん。しかし母の柴口明美さんによると、被災以前は内気な子で人見知りも激しかったそうである。それが震災後、原発20キロ圏内の南相馬市小高区に住んでいた柴口さん一家は避難を余儀なくされた。ななちゃんはそうやって避難所を点々とする間に、自分なりに考えて行動するようになっていたのではないか。母親の明美さんはななちゃんの変化をそう捉えている。そんな、サナギから蝶に脱皮したかのように成長した娘さん、ななちゃんが、明美さんの誇りである。

私は「おにいちゃん」として、ななちゃんの今後の更なる成長を楽しみにしている。が、先日電話でななちゃんと喋った時に、「おにいちゃんだよ~」と声をかけたら、「どのおにいちゃん?」と返されてしまった。
さすが、人気者。

2011/05/10

想いやる気持ち

黙々と作業する団員らの姿を見て、「彼らを駆り立てるものは何であろうか」と想った。

4月中旬、南相馬市原町区の消防団が海岸近辺で依然、行方不明者の捜索をしていた。この頃は30キロ圏内が屋内退避指示地域だったため、自衛隊は勿論のこと、警察による捜索すら行なわれておらず、消防団がボランティアとして活動を行なっていた。
ボランティアと言うと聞こえは、良い。だが活動内容は行方不明者の捜索、そして行方不明者の多くは遺体となって発見されることが多いのだ。ましてや放射能という目に見えない危機と隣り合わせの地域である。多くの団員は平時には別な仕事をしているため、彼らの精神的負担は想像以上であろう。

そんな彼らの活動を目の当たりにした時、私は迷わず彼らの元へ歩み寄り、分団長の大川博さんにお話を伺った。大川さんは原町区在住で、地震・津波の大規模な被害は免れ、震災直後からほぼ無休で活動に参加している。仲間の団員の中には、家族を避難先に置いて自身だけ原町区に戻り、活動に参加している者もいるという。大川さんは、自分にとって、この活動とこの活動に参加している団員が誇りである、と言い切った。そして消防団の活動に加わっている理由をお伺いすると、家族の元に遺体を一日も早く戻してやりたいという、遺された家族を「想いやる気持ち」からだと言う。

これを聞いて私は、はっとした。「想いやりの気持ち」とはとても日本人的な精神性だと私は思う。私は自身の想像力の甘さを自戒すると同時に、この時一つのことを思った。彼らが今後直面するであろう精神的苦痛を。
願わくば、無理をすることだけは避けて欲しい。

2011/05/06

街角の光

真昼間にもかかわらず、そのお店は輝きを放っているように見えた。

4月上旬の南相馬市原町区。その頃原町区は原発事故によって屋内退避区域に指定され、区内の人口は激減していた。市民は放射能の見えない恐怖と不安に怯え、多くのスーパー、コンビニは閉まり、その他の店もほとんど休業していた。

そんな状況の中、町外れに悠然と開店している店があった。店の名は『食事処いずみ』。店主の大戸直正さんは、奥さんと共に店を切り盛りしている。私は正直、この地域を覆っていた不穏な雰囲気に疲れ、ましてや定食屋さんでゆっくりご飯をありつけることなど諦めていたので、この店が「街角の光」に見えた。

お店は地震による被害が少なく翌日から開店したが、原発事故後に仕入れが困難になり、大戸さんは不本意ながらも山形へ避難した。しかし、町の活気を取り戻すためには、外からの声援だけでなく地元から発信する必要性を痛感したという。そうして南相馬へ戻り3月の最終週に営業を再開した。

いまだ食材の調達が困難な状況ではあるが、職人気質の大戸さんは以前と変わらず、お客さんに美味しいもの提供し、また来店してもらえるようにと、調理に励んでいる。

大戸さんにとって誇りであるこのお店は、私にとってそうであったように、地元の人々にとって「街角の光」となっているだろう。


2011/05/04

悲鳴

すべてを飲み尽くした津波。

先人たちが開拓した水田も容赦なく飲み込まれた。

水が引いたあと、田んぼが塩害でひび割れていた。

まるで、悲鳴をあげているかのように。
 
 
 

2011/05/02

もののふの魂

今の時代、「サムライ」だの、「もののふ(武士)」だのと言っているのを聞くと仰々しく思えてしまうものである。しかしお会いして思った、この人は筋金入りだ、と。

西護さんは南相馬市原町区石神に住む野馬追のメンバー。15歳の初陣から数え、昨年までで62年間連続で出陣している。

野馬追とは一千余年の歴史がある旧相馬藩領の神事・祭りで、甲冑行列や神旗争奪戦などが執り行われる。西さんにとって野馬追とは「相馬藩の歴史」であり、「伝統文化」であり、「サムライとしてそれらを守るために血が騒ぐ」のだと言う。

普段の西さんは小柄で、柔和な顔をして喋るおじいちゃん。震災後も20キロ圏内も含め、仲間と共にこの地域に残された馬の救出に奔走した。これも「武士の情」か。しかし馬と接する際は顔が引き締まり、武士の威厳を感じさせる。

今年は野馬追の開催は危ぶまれているが、西さんに宿り、西さんが誇りとする「もののふの魂」は、一生揺らぐことは、ない。