2011/10/18
カッコイイ武士
野馬追で一番カッコイイ人を撮ろう、そう思って今年の野馬追に行った。
総大将出陣祝いの宴でのこと。勢揃いした相馬武士たちは各々が鎮魂や復興など様々の想いを胸に秘めこの日に臨んでいた。特別な年に開催される野馬追、武士たちは一様に険しい表情とピリピリした緊張感を発していたが、中でも一人異様なまでの緊張感、いやスナイパーの殺気にも似たようなものを周囲に放っていた人がいた。その人は宇多郷の螺役長をやってらっしゃる佐藤信幸さん。眼光は鋭く、髪にはアイロンが当ててあり、髭面。一瞬カタギかどうか見紛うような外見で、どちらかと言うと典型的な武士のナリではないかもしれないけれど、現代に武士がいたらこんな感じなのかと思わせる。
自分の中では「この人」と決めたにも関わらずなかなか声をかけられない。スキがないこともさることながら、やはりメディアからも注目を集めているようでインタビューで大忙し。そうこうしているうちに式も終了してしまい、宵の宴に入る前の一服時に思い切って声をかけてみた。
軽く自己紹介をしてからすかさず「一番カッコイイですね」と直球で攻めた。そして「独特のスタイルですね」と畳みかけると、少し照れ笑いを浮かべた後毅然と「自分のスタイルは崩さないです」と粋な答えが帰ってきた。やはり見た目通りで不器用ながらも芯が通ったお答え。その後に野馬追にかける意気込みをお聞きすると「この日のために生活している」「侍を一年間通している」と写真家が喜ぶパンチラインが出るわ出るわ、見た目だけではなく中身もカッコイイ。
お忙しそうだったので続きのインタビューは後日にすることにして、佐藤さんに「誇り」をお尋ねした。お答えは即答で「野馬追」。撮影の希望をお聞きすると娘の想愛羅(ソアラ)ちゃんと一緒にとのことだったので相馬家の陣幕の前で撮影をした。
後日、一見地味な螺役という役職についてお伺いすると堰を切ったように話を続けてくれた。近所の螺役の幹部の方から後継者育成のために誘われ中学生の頃から始めたこと、「野馬追は螺に始まり螺に終わる」という言われがあるように重要な役割であること、螺で全軍をコントロールする快感。そして螺役ならではの最大の誤解は「軽装は楽だべ」と周りから言われることだそうだ。確かに行列の時螺役は鎧兜ではなく軽装で臨む。けれど螺役を片手に乗馬し、馬上で螺を鳴らさなければならない。ましてや佐藤さんは行列が終われば鎧兜を見に纏い甲冑競馬や神旗争奪戦にも参加している身である。それは「(言った人を)見返してやりたい」と思うのも無理もない。
そして今は古より伝わる螺役の技術を後世に伝えることに励んでいる。その思いは震災後も変わることがなかった。4月16日、宇多郷の螺役は中村神社に集い月例の稽古を行った。野馬追の開催も危ぶまれ、「地震、津波、原発でそれどころではない」との声もあったが、野馬追があってもなくても、やるべきことをやる、(螺を吹くことを)止めてしまってはダメという決意にも似たようなものだったと語ってくれた。
日本全国で伝統文化は継承されているがここまでサムライ文化が伝承されている土地は稀だ。人が文化を育み、文化が人を育む。そんな単純明快なことがこの地では継承されてきたことをまざまざと思い知った。
そしてふと思った。なぜ伝統が脈々と紡がれているこの地方が放射能に穢されなければならないのか、と。
物理的に人間が放射能に打ち勝つのは不可能だ。放射能はその土地にあるものを根こそぎ奪い去る。放射能はやがて野馬追をも徐々に飲み込んでいくのではないか、そんな最悪のシナリオが頭によぎる。
そして耳奥には残響のように、佐藤さんがおっしゃった言葉が木霊する。
「遊びでやってるんじゃない、終生相馬家にご奉公するつもりでいる。その忠誠心はあるし野馬追で死んでも良いと思っている。」
放射能と刃を交えたらそこは相馬武士、佐藤さんは背を見せることなく最後まで戦うだろう。どうか佐藤さんが放射能相手に鯉口を切ることがないよう、祈っている。
2011/10/11
不動
小高名物の野馬追火祭り。 夕闇に凱旋した武士たちを沿道に焚かれた篝火と火の玉とが出迎える。 古来より絶やすことなく灯していた火。 今年は小高の地で武士を迎えることもできなければ、火を焚くことさえ叶わなかった。 代わりに今年は原町のお祭りで小高の火祭りが再現された。 小規模ながら闇夜に燈された火の玉は夏夜の微風に揺らめき幻想的だった。 お祭も終盤に差し掛かった頃、火種が切れた火の玉が一つ、また一つと朽ちていった。 風前の燭のなか、懸命に燃えようとする火々があった。 動かざる様は、まるで火が伝統を絶やすことを頑なに拒んでいるようだった。
2011/10/03
かけがいのない存在
母親が二人の娘と赤子と共に映ったありふれた写真。しかし震災後に出産した東北の多くの母親と同じように、笑みの裏側には様々な想いが詰まっていた。
この女性は米澤志寿子さん。生粋の相馬の浜生まれ浜育ちで、市内の言葉とは異なり、直截でありながらどこかおっとりとした浜言葉を明るく喋る女性だ。
地震発生時は妊娠七ヶ月でありながら、社会福祉協議会のケアマネージャーとして利用者の方と話し合いをしていた。地震後、保育園に預けていた二人の娘を迎えに行ったが次女の舞ちゃんしか保育園にいなかった。長女の奈那ちゃんは微熱のため浜に近い米澤さんの祖母の家へ行ったとのことだが、祖母とは一向に連絡がつかない。不安な一夜を明かした後やっと祖母と連絡がついた。奈那ちゃんは祖母にしがみつき襲い来る津波の奔流に耐えていたが、祖父は眼の前で流されてしまったと言う。
原発事故後相馬を離れて避難する選択肢もあったが、生まれ育った土地で家族と共に過ごすのが最良と考え、震災以後一度も相馬を離れなかった。
責任感が強く、時には育児より仕事を優先してきた米澤さんは、祖父の葬儀を終えた翌日から仕事を再開した。震災後は疲労と心労が重なりお腹の張りを訴えて病院に入院もしたが、6月1日に無事長男の藍希くんを出産した。
九死に一生を得た奈那ちゃんは震災以後、度重なる余震の度に怯える毎日だった。大災害で心に深い傷を負ってしまったが、保育園に再び通園するようになるとだいぶ落ち着きを取り戻し、今は前に向かって進んでいるように見えると米澤さんは言う。実際保育園で撮影していた時のこと、那奈ちゃんはふとした瞬間にボーっとした表情を浮かべることがあったものの、浜の子らしく思いっきり遊んでいた。
次女の舞ちゃんは震災前と変わらず人見知り娘だが、性格的にはちょっかいを出したりするお調子者だ。撮影の際も最初はまともに撮らせてくれなかったが、2ロール目に入る頃には変顔やら不思議な顔やらをしてくれた。
自宅で可愛い娘と息子に囲まれた米澤さんに「誇りは何ですか」と尋ねた。写真家の嫌らしい予測というか期待通りと言うか、米澤さんの答えは「震災以前は仕事だったけれど、今は三人の子供たちです」とのこと。震災をきっかけに家族、ことに自らが産み落とした子供たちのかけがえの無さに気付いたと言う。
地元原釜についても伺うと「生まれ育った浜が嫌いだった」とのこと。震災後も相馬に残り続けたにも関わらず意外な答え。どうやら浜の言葉は相馬市内の言葉とも違い、小学校時代などはその言葉遣い故仲間に引け目を感じていたらしい。その浜が好きなったのは看護学校に通うために水戸に出た際のこと。街に出て初めて原釜の水・空気・魚が美味しく、隣り近所の地域の和の良さに気付いたと言う。
翻ってこの「かけがいのない存在」への思いというものが、現代社会ではますます希薄になってきているような気がする。家電製品や自動車は膨大な量の広告によって買い替えを迫られ、音楽はコピー、終いにはクローン動物までも技術的には可能となっているこのご時世。実態やらオリジナルを見失いがちになってしまうが、この世には刻一刻と新たな産声が世界中で上がっている。実際に私は米澤さんとの出会いで藍希くんという新たな生命と出会うことができ、感じることもできた。なんだ、そう難しく考えるまでもなく、ただ生きとし生ける生命はかけがえの無い存在として私の身近に溢れ、いつでも感じることができるではないか。そんなことに気付いたら、米澤さんとの出会いは勿論、私の周りに溢れる人、草花、生命が一層愛おしく思えてきた。
そんな単純だけれど大切なことに気付くことができた。その上、写真を米澤さんに差し上げたら「こんな時代だから写真の大切さを今まで以上に感じてます」と喜んでもらった。
何だか、二重に得をした気分になった。
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